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「真田幸村」 柴田錬三郎作 525円 |
| 一読、やめられなくなる痛快読み物、柴錬立川文庫第2弾! 真田幸村は終始、豊臣方の味方として家康に対して智謀をめぐらす。おなじみ「猿飛佐助」ほか、真田十勇士は死力を尽くして戦うが…。後藤叉兵衛、木村重成らも登場していよいよ大阪夏の陣へ! 「真田大助」「後藤又兵衛」「木村重成」「真田十勇士」「風魔鬼太郎」「山田長政」「徳川家康」「大阪夏の陣」の8編を収録。
柴田錬三郎(1917〜78)岡山県生まれ。慶大支那文学科卒。在学中から「三田文学」に作品を発表しはじめ、「イエスの裔」で直木賞受賞。「眠狂四郎無頼控」で一躍、時代小説の第一人者、人気作家となった。代表作には「剣は知っていた」「赤い影法師」「柴錬立川文庫」の連作などがある。 |
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慶長十六年三月廿日。豊臣秀頼は、織田有楽《うらく》、片桐且元、同主膳、大野修理《しゅり》、木村重成らを供にして、二条城に入って、徳川家康と会見した。 その日の辰の刻。 家康は、庭まで降りて、秀頼を迎えた。秀頼は、慇懃に礼謝《らいしゃ》した。 七十歳の老人は、十九歳の青年をみちびいて、御成《おなり》の間に入り、あらためて挨拶をかわし、さて、四方山《よもやま》の話をはじめた。 次の間には、淀君に対して、秀頼の身の安全をうけ負った加藤肥後守清正と朝野紀伊守幸長《よしなが》が、端然《たんぜん》と、控えていた。 老人と青年は、いかにも隔意《かくい》なげに、機嫌よく、語りあった。 そのうち、家康は、ふと、気づいたように、 「おひろい殿には――」 と、微笑し乍《なが》ら、秀頼の幼い頃からの称《よ》びかたを親しげに呼んで、 「近頃、大層武芸にご熱心になられた、とうかがい申したが、よほど上達なされたであろうな」 と、云った。 すると、秀頼は、 「自ら習うのではなく、観るのを好んで居り申す」 と、こたえた。 大阪城を出て、船で淀川をのぼっている時、秀頼の前に、忍び護衛を引受けた真田左衛門佐幸村が、現れて、 「おそらく、内府は、話なかばに、なにげない口ぶりで、大阪城に、数多くの武芸者を容れていることを、訊《き》くであろうと存じられます。その時のご返辞を、おあやまり遊ばさぬように、願い上げます」 と、返辞のしかたを、教えたのである。 幸村は、あるひとつの計画を持っていたのである。 「ほう――観る方をな」 家康は、頷《うなず》いた。 秀頼は、幸村に教えられた所望を、ここで、きり出す機会だ、と考えた。 「つい先頃、伊藤一刀斎なる兵法《ひょうほう》者が、城に参った際、未だ曾《かつ》て観ざる異様な剣技を使う、夢想只四郎と申す者を、内府殿には、食客になされた由、語って居り申した。今日は、よい機会なれば、夢想只四郎の腕前を、拝見いたし度う存ずる」 「はて? そのような兵法者を、食客にいたしたかな?」 家康は、とぼけ顔になった。 「このじい《ヽヽ》も、武芸好きでござれば、日に幾人となく、一流を誇称《こしょう》する兵法者が、髄身《ずいじん》をねがって、押しかけて参るゆえ、一人一人の名も顔も、おぼえて居り申さぬが……」 秀頼は、微笑した。 秀頼は、幸村から、家康が必ずとぼけるに相違ない故、その時は、次のように、申し出れば、承知するであろうと、教えられていた。 「扈従《こしょう》のうちに、木村長門守重成と申す若者を、加えて居り申す。これが、近頃、無刀の業《わざ》を会得《えとく》したと申して居る故、夢想只四郎と立合わせて頂けまいか」 秀頼の乳兄弟にして、秀麗の容姿は古今に冠絶《かんぜつ》し、器量人に超え、文武の造詣《ぞうけい》深く、挙止《きょし》の閑雅《かんが》は、いにしえの大宮人を彷彿《ほうふつ》とさせる――まことに、男子として、すべての美点を備えた木村長門守重成の存在を、誰知らぬ者はなかった。 家康は重成の父木村常陸介重茲《ひたちのすけしげとし》とは、親しい間柄であった。常陸介重茲は、江州佐々木の一党にして、太閤がまだ筑前守であった時代から仕え、各地の戦いに殊勲をたて、越前において十二万石を領していた。関白秀次の執権《しっけん》となって、その勢力は、石田治部少輔三成に匹敵していたが、秀次が滅亡するや、自らも、摂州《せっしゅう》茨木の大門寺に退いて、自決して果てた。 いわば、常陸介は、豊臣家に対しては、逆臣となっていた。当時、重成は、わずか三歳であった。生母に手をひかれて、本国近江にのがれ、蒲生郡の馬淵に潜匿《せんとく》し、かれらの宗家である先《さき》の江州太守・佐々木義郷の庇護の下に、育った。 やがて、石田三成が、関ヶ原の戦いに敗れて、三条河原で首を刎《は》ねられるや、重成は、生母とともに、大阪城に召出された。 生母は宮内卿と称して、秀頼の保姆《ほぼ》となり、重成は、また秀頼の扈従に挙《あ》げられたのである。 重成は、秀頼と年齢も同年であった。秀頼が、慶長十年に、右大臣に任ぜられるや、重成も、諸大夫に列せられ、長門守に任官する異例の出世をみたのであった。 いまは、十九歳で、三千石を食《お》し、大阪城内で、重臣の地位に在った。 しかし、木村重成が、いかに、器量きわだち、文武の道に秀れていても、一流兵法者ではない。無刀の業を会得するということは、一流兵法者がさらに、神妙の名人の域に達して、はじめて成し得る話である。 上泉伊勢守とか塚原卜伝とか、あるいは柳生石舟斎などの達人にして、はじめて、無手をもって敵に勝つ術を身にそなえ得るのであった。武芸を好み、おのれも並の腕前ではない家康は、当然、秀頼の高言を、肚裡《とり》で、嗤《わら》った。 「木村重成が、無手の業を会得した、と申されるか。おひろい殿には、それを観られたかな?」 「いまだ、観て居り申さぬ故、観とう存ずる」 家康は、ここで、いかにも、思い出したように、膝を打った。 「お! たしかに、一月あまり前、夢想只四郎とか申す武芸者が、柳生宗矩《むねのり》をたずねて参って、いま猶、逗留して居ると、きいて居る」 「では、明朝にも、立合わせて頂きとう存ずる」 「かしこまった。これは、愉しみじゃ。木村重成が、無刀の業を示すとなれば、城内の女子めらは、目の色をかえようわい。はははは……」 家康は、おもしろそうに、いくども、頷いた。 二条城の女性たちは、秀頼上洛ときいて、秀頼を拝むよりも、重成をかい間視たいと、さわいだのである。 ……「木村重成」巻頭より |
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