「牧師館殺人事件」

アガサ・クリスティ/中村妙子訳

ドットブック版 130KB/テキストファイル 206KB

630円

ロンドンからそう遠くない閑静なセント・メアリ・ミード村の牧師館の書斎で、治安判事が射殺されて見つかる。頑固一徹で、人から好かれない人物で、なにかと敵も多かった。一人の若い画家がすぐに自首して出て、事件はそのまま落着かと思われた。だが、新事実が相次いで明らかになって、事件は混迷の度をふかめ、村には噂と疑惑が渦まく……ミス・マープルがおしゃべり好きなおばさんとして初めて登場、同時に鋭い洞察力をみせて真相にせまる記念碑的作品。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「アクロイド殺人事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 ある水曜日の牧師館の昼食(ひるげ)どき――私はこの物語をそこから書き起こすことにする。いろいろな事実が複雑にからみあっているこの種の話しの場合、発端をどこに求めるか、これはいささか問題だ。その昼食の際の会話はおおむね事件とは何の関係もなかったが、それでも後の展開に影響をおよぼすことになる暗示的な出来ごとも一つ二つ話題にのぼったのだ。
 さて昼食の食卓でボイルドビーフ(ついでながら、おそろしく固い代物(しろもの)だった)を切り終えて腰をおろしたとき、私ははなはだ聖職者らしからぬ気持で、次のような感想を洩(も)らした。
「プロザロー大佐をだれかが殺してくれれば、社会に大いに貢献することになると思うがね」
 すると甥(おい)のデニスがすぐさま口を出した。
「万一、血の海に浸っているプロザローさんの死体が発見されたりしたらこと(ヽヽ)だよ。伯父さんのいまの発言は、どうしたって不利な証拠になるからね。伯父さんが聞き捨てならないことをいったと、まずメアリが証言するだろうし――ねえ、メアリ? それだけじゃない。そういいながら、凶暴な手つきで肉切りナイフを振りまわしたことまでね」
 メアリはもっと給料の高いわり(ヽヽ)のいい地位につくまでの、いわばつなぎに牧師館のお手伝いの地位に甘んじている娘だが、この言葉をまったく無視してしごく事務的な大声で「お野菜です」といって、ひびの入った皿をデニスの鼻先にじゃけんな手つきで突き出した。
 妻は私の顔を見て、同情に堪えぬという口調できいた。
「プロザローさん、そんなにひどかったの?」
 私はすぐには答えなかった。野菜の皿を食卓の上にガチャンと音を立てて置いたメアリが、今度は私の前にばかに水っぽい、まずそうなすいとん(ヽヽヽヽ)の一皿を突きつけたからだった。「ああ、いや、結構だ」そう私が呟(つぶや)くと、メアリはそれを手荒くテーブルの上にほうりだして食堂から出て行った。
「わるいわね、あたしが主婦として最低だもんだから」と妻は心底すまなそうにいった。
 妻が最低の主婦だということについては、私にも異論はない。妻の名はグリゼルダ、牧師の妻らしい温良貞淑そうな名だが、牧師の妻らしさはこの名前に尽き、グリゼルダには温良貞淑なところはみじんもなかった。
 神に仕える牧師は結婚すべきではない――そう私はかねてから考えていた。知り合って二十四時間しかたっていないグリゼルダに結婚を申し込むという唐突なことをなぜしたのか、それは私自身にもいまもって解けぬ謎(なぞ)だ。結婚とは人生の重大事であり、熟慮検討の後、はじめて決断すべき事柄であることや、その際、趣味や性向の一致が重大な条件となることを、私はよくよく承知していた。
 グリゼルダは私よりほとんど二十歳も年下で、たいていの男を夢中にさせるほどかわいらしく、そのうえ物事を真面目に取ることができぬたちだった。主婦としてはおよそ無能で、いっしょに住んでいると閉口させられることがきりなくあった。そもそも彼女は教区を、彼女を面白がらせるためにこしらえられた一大ジョークと受け取っているらしい。妻の品性の涵養(かんよう)には夫も責任がある――そう思って私もそれなりに努力してきたのだが、いまのところ、その努力はことごとく失敗に終っていた。そんな次第で、私はいまでは結婚前以上に、独身生活こそ牧師にとって願わしい境涯だと確信している。そうしたことをグリゼルダにしばしばほのめかしてみたが、いつも笑いとばされていた。

 ……冒頭より

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