「ワーニャ伯父さん」

チェーホフ/原卓也訳

ドットブック版 80KB/テキストファイル 52KB

300円

47年間の自分の一生がまったく無意味なものだったことに思いいたるワーニャの絶望、6年間ひそかに、熱烈に慕いつづけてきたアーストロフへの愛が、一瞬のうちに打ちこわされ、絶望につきおとされる姪のソーニャ…だが二人は健気に生きる決意を固める。「かもめ」とともに新しい演劇の地平をひらいた名編。

チェーホフ(1860〜1904)ロシアの作家。モスクワ大学医学部を卒業し、医師のかたわら、最初は多数のユーモア短編小説を書いたが、20代の後半から本格的な文学を志すようになった。中期の作品には、社会的問題を取り上げ、当時の反動政治のもとであえぐ知識階級の絶望と消極性と卑劣さをあばく作品が多い。肺結核とたたかいながら、ヤルタに転地し、晩年に至る後期の作品は、世紀末の停滞した空気の中で埋没していく人間への批判と、真の人生を見出そうとする人々がテーマとなっている。代表作に『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の四大戯曲のほか、『六号室』『中二階のある家』『決闘』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』などがある。44歳で亡くなった。

立ち読みフロア

 庭。テラスのある家の一部が見える。並木道のポプラの老樹の下に、お茶の支度のできたテーブル。ベンチと椅子《いす》がそれぞれ数脚。ベンチの一つにギターがのっている。テーブルから近いところにブランコ――午後二時すぎ。曇り。

 マリーナ〔病的に太った、動きの少ない老婆で、サモワールの前に坐って、靴下《くつした》を編んでいる〕と、アーストロフ。〔そのそばを歩きまわっている〕

【マリーナ】 〔コップに注《つ》ぐ〕召しあがれな、旦那《だんな》さん。
【アーストロフ】 〔気のすすまぬ様子でコップを受けとる〕なんだか欲しくないんだ。
【マリーナ】 なんなら、ウォトカにしますか?
【アーストロフ】 いや、ウォトカだって毎日飲むわけじゃないさ。それに、蒸し暑いからね。〔間〕ばあや、ばあやと知合いになってから、どのくらいになるかね?
【マリーナ】 〔思案しながら〕どれくらいでしょうね? なにしろ物忘れがひどいから……旦那さんがここへ、この土地へいらしたのは……いつでしたっけ?……ソーニャの母さんのヴェーラ・ペトローヴナがまだ生きてらしたんですから。あの方のご存命中に旦那さんはふた冬、ここへおいでになりましたよ……してみると、十一、二年たったわけですね。〔ちょっと考えて〕ことによると、それ以上になるかも……
【アーストロフ】 あの頃からみて、僕はひどく変わったかね?
【マリーナ】 変わりましたとも。あの頃はお若くて、男前でしたけれど、この頃ちょっとお老《ふ》けになりましたよ。それに、男前ももうあの頃とは違うし、なにしろ、ウォトカなんぞも召し上がるから。
【アーストロフ】 そう……十年の間に人が変わっちまったからね。その原因はなんだと思う? 働きすぎさ、ばあや。朝から夜遅くまで立ち通しで、気の休まる暇《ひま》もない有様だし、夜、毛布にくるまって寝ていても、往診にひっぱりだされなきゃいいがと、びくびくしてる始末だ。ばあやと知合いになった時以来ずっと、僕にはただの一日だって、暇な時はなかったよ。これで老《ふ》けこまずにいられるはずはないさ。それに生活そのものがわびしくて、愚劣で、不潔ときているしね……こんな生活が影響するんだよ。まわりをみりゃ変人ばかりだ。どっちを見ても変人ばかり。そんな連中と二、三年いっしょに暮らしてりゃ自分じゃ気づかないうちにこっちまで少しずつ変人になってゆくさ。避けがたい運命だね。〔長い口ひげをしごきながら〕ほら、ばかでっかい口ひげなんぞ立てて……愚劣なひげさね。僕は変人になっちまったよ、ばあや……頭はまだばかになっちゃいないけどね、ありがたいことに。脳味噌《のうみそ》はちゃんとしてるんだが、人間らしい感情はなんだか鈍くなったな。何も欲しくないし、何もいらないし、だれをも愛しちゃいない……ばあやのことだけは好きだけどさ〔彼女の頭にキスする〕。子供の頃、僕にもこういうばあやがいたっけ。
【マリーナ】 なにか召しあがりませんか?
【アーストロフ】 いや、大斎期の三週目に、マリーツコエ村へ伝染病の治療に行ったんだ……発疹《ほっしん》チフスさ……どの小屋にも百姓がごろごろしていてね……不潔、悪臭、煙。床には子牛が寝てるしさ、病人といっしょにだよ……子豚までいる始末だ……腰もおろさなけりゃ、パン屑《くず》一つ口にもせずに、丸一日とびまわって、やっとわが屋に帰ったら、一息入れるひまもなく、鉄道の転轍手《てんてつしゅ》が運びこまれてきてね。手術するために台に寝かせたら、クロロホルムの麻酔でぽっくり死んじまうじゃないか。ところが、必要もない時に、人間らしい感情がめざめて、僕の良心をしめつけはじめるんだ、まるで僕がその男を意図的に殺したみたいにさ……腰をおろして、ほら、こんなふうに目をとじて、僕は考えたんだよ。百年、二百年あとにこの世に生きる人たちは、今こうやってその連中のために道を切り開こうとしているわれわれのことを、ありがたく思ってくれるだろうか? 思ってくれやしないんだよ、ばあや!
【マリーナ】 人間は思っちゃくれなくても、その代りに神さまが思ってくださいますよ。
【アーストロフ】 ありがとう。いいことを言ってくれたね。

……「第一幕」巻頭より

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