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「アンクル・トムズ・ケビン(下)」 H・B・ストウ作/山屋三郎・大久保博訳 エキスパンドブック 889KB/ドットブック 337KB/テキストファイル 297KB 840円 |
| トムはニューオーリンズの富豪セント・クレアの一人娘エヴァが河に落ちたのを救った縁で、同家に買い取られる。だが、比較的落ち着いた暮らしも、エヴァの死、つづく主人の急死によって一転する。トムは飲んだくれで残忍なミシシッピの農場主リグリィに買い取られていく。その果てに待っていたものは…… | |
| 立ち読みフロア | |
| 「そりゃあなんだね?」と女の一人が言った。 「聖書だよ」とトムは言った。 「そうかね! わし、ケンタックを出てから一度も見たことがなかった」 「あんたケンタックの生まれかね?」とトムは興味をひかれて言った。 「ああ、それに暮らしもよかった。こんな所に来るなんて考えたこともなかっただ!」と女はため息をつきながら言った。 「とにかく、その本はなんなんだね?」ともう一人の女が言った。 「えっ、聖書だよ」 「へえ! 聖書ってなんだね?」とその女は言った。 「おやっ! あんた聖書ちゅうものを聞いたことがねえだか?」と初めの女が言った。「わしなどケンタックにいた時分、奥さまが時々読んでいたのをよく聞いたもんだが。だけど、ほんとうに! ここでは鞭の音と、どなりちらされる声しか聞けんでのう」 「とにかく、少し読んでみて下せえ!」ともう一人の女は、トムが熱心に読みふけっているのを見て、好奇心に駆られて言った。 トムは声を出して読んだ、――「凡(すべ)て労(ろう)する者・重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」(マタイ伝、第十一章第二十八節) 「そりゃあ、ええ言葉だ、まったく」とその女は言った。「だれが言うとるのかね?」 「主なる神さまだよ」とトムは言った。 「どこへ行ったらその人に会えるか、わかったらええと思うだが」とその女は言った。「そしたらわしは会いに行くだ。わしはもう二度とからだをやすめることができねえようだものな。わしのからだはずきずきと痛む、毎日、からだじゅうに震えがくる、それなのにサムボゥは、しじゅうわしに文句を言って、もっと早く棉を摘めとぬかす。夜は真夜中近くならねえと夕飯が食えねえ。横になって、目を閉じたと思うと、もう角笛が鳴って叩き起こされて、朝がまた来てしまうだ。その主なる神さまとやらがどこにいるかわかれば、わしその人に言ってやりてえもんだ」 「そのかたはここにいらっしゃるよ、そのかたはどこにでもいらっしゃるのだよ」とトムは言った。 「へん、そんなこたあ、わしには信じられねえ! ここに神さまがいねえことは、わしが知っているもの」とその女は言った。「だが、こんな話はしていたって無駄だ。どれ、小屋へ行って、寝られるうちに寝ておくことにしよう」 女たちは自分たちの小屋へと立ち去った、そしてトムは、まだいぶりながら燃えている火の側に、ただ一人すわっていた。火は時々ちらちらと燃え上がっては彼の顔を赤く照らしていた。 銀色の、美しい眉をした月が紫色の空にのぼった。そして神がこのみじめな虐げられた光景を見つめるように、月はじっと静かに見下ろしていた、――腕を組み、膝に聖書をひろげてすわっている孤独な黒い人間をじっと見つめていた。 「神さまはここにいらっしゃるのだろうか?」ああ、この無知なる心が、この恐ろしい支配、この明白にして、何人(なんぴと)も制止することのできない不正に直面して、しかもなお変わらぬ信仰をもちつづけるということがいかにして可能であろうか? トムの無学な心の中は激しく戦っていた。波のように砕け散る悪に対する観念、これから先の悲惨な生涯を思わせる黒雲、これまでのすべての希望の破壊、それらがまるで溺れかけた水夫の目の前に、暗い波間から浮かび上がってうねり寄せてくる妻や子や友だちの死体のように、魂の目の前に悲しげに揺れ動くのであった! ああ、かかるところで(・・・・・・・)あの偉大なるキリスト教の合い言葉を信じ、そして守り抜くことがはたして容易なことであったろうか、「神は存在し、且つ孜々(しし)として神を求むる者の報酬者なり」(ヘブル書、第十一章第六節参照)と? トムは悲しい思いで立ち上がった。そして自分にあてがわれた小屋の中へよろけながら入っていった。床(ゆか)の上にはもういちめんに疲れ果てた奴隷たちが横たわって眠っていた。そして中の濁った空気は彼を一瞬たじろがせたほどであった。しかし深い夜露は冷たく、彼の手足は疲れ果てていたので、唯一の夜具であるぼろぼろの毛布をからだにまきつけて、わらの中に身を横たえ、彼はそのまま眠りに落ちていった。 夢の中で、優しい声が彼の耳もとに聞こえてきた。彼はポンチャトレイン湖畔の庭園の苔むした腰かけにすわっていた。そしてエヴァが、そのまじめな目を伏せて、彼に聖書を読んでくれていた。彼は彼女がこう読むのを聞いた、 「なんじ水中(みずのなか)をすぐるときは我ともにあらん、河のなかを過(すぐ)るときは水なんじの上にあふれじ、なんじ火中(ひのなか)をゆくとき焚(やか)るることなく火焔(ほのお)もまた燃(もえ)つかじ。我はエホバなんじの神イスラエルの聖者なんじの救主なるが故なり」(イザヤ書、第四十三章第二節および第三節) やがてその言葉は、天使の奏でる音楽のように、溶けて消えてゆくように思われた。子供はその深い目をあげて、じっとなつかしそうに彼を見つめた。その目から温みと慰めの光が彼の胸に射し込んでくるように思われた。それから、彼女はあたかもその音楽にのって浮かび上がったかのごとく、光り輝く翼にのって舞い上がってゆくように思われた。その翼からは黄金の火の粉が星のように舞い落ちた。そして彼女の姿は消えてしまった。 トムは目をさました。それは夢だったのだろうか? 夢ならば夢でもいい。しかし、苦しみ悩む人たちを、慰め励ましてやりたいと、生前あんなにも望んでいたあの美しい幼い魂が、死んでから後もこの務めを果たそうとするのを、神がお許しにならなかったなぞとはだれに言いきれよう? 「第三十二章 暗き場所」より |
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