「透明人間」

H・G・ウェルズ/石川年訳

ドットブック版 150KB/テキストファイル 128KB

300円

二月の吹雪の朝、イギリスの田舎町の宿屋に一人の男があらわれる。宿のおかみは客の途絶えがちな季節にとびこんで来てくれたこの客に内心喜び、なにかと張り切ってサービスに努めようとする。だが、客の愛想はよくない。そして、予想外の出来事が起こり始める……ヴェルヌとならぶSFの開拓者H・G・ウェルズの代表作。
立ち読みフロア
 その男がやって来たのは二月の寒い日だった。身を切るような風と、その年最後の吹雪(ふぶき)が横なぐりに吹きつけるなかを、ブランブルハースト駅から、丘を越えて歩いて来たのだ。男は厚手の手袋をぴっちりとはめた手に、小さな黒い鞄(かばん)を一つだけ、ぶら下げていた。
 頭のてっぺんから足の爪先(つまさき)まで、すっかりくるみこんで、ソフトを目深(まぶか)にかぶっていたから、顔もすっぽり隠れ、わずかに、赤らんだ鼻の先だけが、帽子のふちからのぞいていた。
 雪は男の肩と胸に積もり、おまけに手の鞄の上にまで、白い羽飾りのように吹きかけていた。息もたえだえの様子で、馬車宿によろめき込むと、黒い鞄をほうり出して「火にあたらせてくれ」と、大声で「頼むよ。部屋(へや)と火だ」
 酒場の入口で立ち止まり、雪を払い落としてはいり、おかみのホール夫人の案内で客待ちへ通り、宿賃のかけあいをした。くだくだしい挨拶などあったあとで、おかみの言い分ににっこりうなずくと、男は金貨を二枚、テーブルにほうり出した。それで宿がきまったのだ。
 おかみのホール夫人は、暖炉に火をつけると、男をそこに待たせたまま、手料理の食事の支度をしに、出て行った。アイピング村に、冬の季節に泊まり客が来るなんて、なんて間(ま)がいいんだろう、しかも、そのお客が「旅商人(たびあきんど)」でないときているんだから、おかみさんはせいいっぱい、誠意を尽くそうと張り切った。ベーコンの料理にとりかかるとすぐ、のろまな女中のミリーをしかったりおだてたりして追いまわし、テーブル・クロス、皿、グラスなどを客間に運び、せいいっぱいの愛嬌(あいきょう)をふりまきながら並べ始めた。ところが、驚いたことに、暖炉がよく燃えているのにお客は、まだ帽子(ぼうし)もつけたままで、おかみさんの方へ背を向けて、窓から、雪の降る中庭をながめていた。手袋をはめたままの手を後ろで組み、何かに思いふけっているようだった。よくみると、肩の雪がとけて、絨毯(じゅうたん)にしたたり落ちていた。
「お帽子と外套をおとりいたしましょうか」と、おかみが「お台所で、お干しいたしますわ」
「結構」と、客は振り向かずに言った。
 おかみは、声が聞こえなかったのかと思って、もう一度、言おうとしかけた。
 そのとき、客はくるりと首だけねじ向けて肩ごしに「着たままでいたいんでね」と、おだやかな声で言った。気がつくと、わきガラスつきの青い大きな眼鏡(めがね)をかけていて、顔をすっぽり隠している外套の襟(えり)のすき間から、もじゃもじゃの頬(ほお)ひげがのぞいていた。
「さようでございますか」と、おかみが「およろしいように。すぐ、お部屋も暖まりますわ」
 客は返事もせずに、また顔をそむけた。おかみは、よけいなおしゃべりが、気にさわったのかなと思い、あわてて、食器類をテーブルに並べると、そそくさと出て行った。やがて、もどってみると、客はまだ、さっきのまま石のように立ちつくしていた。背をまるめ、外套の襟を立て、雫(しずく)のたれている帽子のふちを深く下ろして、顔も耳もすっぽり隠していた。おかみは、わざと音をたててベーコン卵の料理をテーブルに置き、かなりこわばった声で「お支度ができました」
「どうも」と、客はすぐに受けたが、おかみが出てドアが閉じるまで、身動きもしなかった。ドアがしまると、くるっと向き直り、待ちかねたように、すばやくテーブルに近づいた。
 おかみが酒場の後ろを通って台所へ行くとき、一定の間(ま)をおいて、チューチューチューとスープを吸う音が聞こえ、スープ皿の底をすくうスプーンの気ぜわしい音もした。「そうそ、あの女中(こ)」と、おかみは「なんてぐずなんだろう。あら、すっかり忘れてたわ」と、自分でカラシをかきおえると「早くおしよ」と、ミリーをしかりつけた。それから、ハム・エッグをつくって、テーブルに置き、盛りつけなどをやっている間も、ミリーときたら(役立たずで)相変わらず、ぐずらぐずらと、カラシをつつきまわしていた。せっかく、お客が来て、一日も長く泊まってもらいたいというのに、そんなおかみさんの気持ちなんか、さっぱり通じない女中(こ)だ! おかみは、カラシを壺(つぼ)に入れ、金色と黒の盆にのせると、うやうやしく、食堂に運んで行った。
 軽くノックして、すぐ部屋にはいると、お客はさっと動いた。あまりすばやいので、白っぽいものが、ちらっとテーブルの後ろに隠れたとしか見えなかった。客は、床からなにかひろいあげようとしているようだった。おかみはカラシ壺をそっとテーブルに置き、横目で見ると、外套と帽子が暖炉の火の前の椅子(いす)に脱ぎすててあり、ぬれ靴(くつ)が炉囲いの上にのせてあった。金物がぬれてさびるのもおかまいなしに。

……《一 よそ者の出現》より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***