チェーホフ短編集

「燈火」
(「眠い」など9編収録)

チェーホフ/中村白葉訳

ドットブック版 207KB/テキストファイル 150KB

400円

チェーホフの最も充実した時期に属する短編のうちの代表作を集めた選集。本巻には「睡い」「燈火」「浮気」「学生」「葦笛(あしぶえ)」「無題」「百姓」「故郷」「富籤(とみくじ)」の9編を収録した。
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 戸外でけたたましく犬が吠え出した。技師のアナーニエフと、その助手の学生フォン・シュテンベルグと、私とは、犬が何を吠えているのか見届けるために、バラックから出て行った。私はこのバラックの客だったので、出て行くにもあたらなかったのであるが、実をいうと、一杯やった酒が利いて頭が少しふらふらしたので、新鮮な外気を吸うのが嬉しかったのである。
『誰もいやしない……』私達が外へ出た時に、アナーニエフが言った。『アゾールカ、なんだって貴様はこんな嘘をつくんだ? 馬鹿め!」
 あたりには人影ひとつ見えなかった。黒い番犬である「馬鹿」のアゾールカは、さだめしいたずらに騒いだ罪を詫びようとでもするのであろう、おずおずと私達の方へ近づいて、尻尾(しっぽ)を振り出した。技師は身を屈めて、彼の耳の間を撫でてやった。
『これ、なんだってお前はわけもないのに吠えるんだ?』と彼は、優しい心を持った人々が子供や犬を相手に話す時の調子で言った。『いやな夢でも見たのか、ううん? ねえドクトル、ひとつこいつを紹介しますがね』彼は私の方を向いて言った――『どうも、えらく神経質な奴でしてね! とてもひとりじゃいられないんですよ、のべつ恐い夢を見て、うなされづめで、うっかり怒鳴りつけでもしようものなら、まるでヒステリイのようになっちまうんですよ』
『そうです、とても敏感な犬なんです……』と大学生も言葉を合わせた。
 アゾールカはどうやら、話が自分のことであるのを悟ったに違いなかった。鼻面を持ちあげて、「ええそうですよ、わたしは時々とても堪らないほど苦しくなることが、あるんですよ、がどうぞお許し下さい!」とでも言おうとするように、哀れっぽくきゅんきゅん鳴き出した。
 八月の、星は多いが真暗な夜であった。これまでの生涯に、私はついぞ一度、現在偶然に落ちているようなこうした特殊な境涯に身を置いたことがなかったので、この星月夜が私には、何やら淋しい、無愛想な、それが実際にあったよりもずっと暗いもののように思われたのだった。私が立ってみたのは、今工事最中の鉄道線路の上であった。半ば出来あがった高い土手や、砂や、粘土や、屑石の堆積(やま)や、幾棟ものバラックや、穴や、そちこちにほうり出されてある手押し一輪車や、工夫達の住んでいる土小屋の屋根の平べったい高まりや、――闇の一色に塗り潰されたこれらの混雑が、この地上に、さながら混沌時代を思い出させるような、一種異様な、荒涼たる相貌を与えていた。私の眼前に横たわる一切のものがあまりに紛然雑然としていたので、このぶざまに掘り返されてなんに譬(たと)えてみようもないような地上に、人影や、すらりとした恰好のいい電柱などを見るのが何やら不思議に思われたほどであった。そのいずれもが、この画面の調和を取り壊して、同じ世界のものではないように見えた。あたりは静かで、聞えるものとてはただ、私達の頭上の、どこか非常に高いところで、電線がその憂鬱な歌をうたっているだけであった。
 私達は土手へよじのぼって、その上から地上を見おろした。私達から五十サージェン(一サージェンは七尺余)ばかりのところ、窪地や、穴や、物の堆積(やま)などが夜の暗霧と隙間もなく解け合っているあたりに、ぼんやりとした一点の灯影(ほかげ)が瞬いていた。その向うに第二の灯影、そのまた向うに第三のそれ、それから更に百歩ばかりを距(へだ)てて 二つの赤い眼が並んで光っていた――多分どこかのバラックの窓であろう――そしてこうした燈火の長い列は、次第に密に、次第に光を弱めながら、線路に沿うて地平線まで延び、それから左へ半円を描いて、遠い夜の闇の中へ消えていた。それらの灯影は、じっとしていて動かなかった。それらの火と、夜の静寂と、悲しげな電線の歌の中には、何やら相通ずるものがあるように感ぜられた。何か重大な秘密が土手の下に隠されていて、それを知っているのはただ、この灯影と、夜と、電線だけであるように思われた。
『ああ、なんという素晴らしさだろう!』とアナーニエフは溜息をついた。『この広さと美しさはどうだ、少しふんだんに過ぎるくらいじゃないか! それにこの土手! これはもう土手ではなくて、純然たるモンブランだ! 何百万というねうちものだ……』
 遠い灯影と、数百万ルーブリのねうちのある土手に魂を奪われながら、一杯機嫌で感傷的な気分になっていた技師は学生フォン・シュテンベルグの肩を軽く叩いて冗談らしい調子で続けた――『どうだね、ミハイル・ミハイルイチ、君はどう思いますね! 自分達の手で作った仕事を見るのは実に愉快なもんじゃないか? 去年までは、人間の臭いもしない裸の曠野(こうや)だった同じ場所に、今ではこの通り――生活があり、文明がある! 実に素晴らしいじゃないか、君! 僕と君とは今鉄道を敷設している。われわれの死後百年とか二百年とかのうちには、他の人達がここに、工場や、学校や、病院を建てるだろう、そして――機械ががらがら動くようになるだろう! ええ?』 

……「燈火」冒頭より

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