「わが生活・谷間」

チェーホフ/中村白葉訳

ドットブック版 215KB/テキストファイル 152KB

400円

「虫は草を食い、錆(さび)は鉄を食い、虚偽は魂を食う!」ペンキ屋レージカがくり返すこの言葉をはさんで営まれる小都市の暮らしの交響曲。このチェーホフ壮年期の力作「わが生活」と、ある谷間の裕福な農民一家の何年かの暮らしのなかに「時の大きな流れ」を活写した晩年の中編「谷間」を収めた。

チェーホフ(1860〜1904) ロシアの作家。モスクワ大学医学部を卒業し、医師のかたわら、最初は多数のユーモア短編小説を書いたが、20代の後半から本格的な文学を志すようになった。中期の作品には、社会的問題を取り上げ、当時の反動政治のもとであえぐ知識階級の絶望と消極性と卑劣さをあばく作品が多い。肺結核とたたかいながら、ヤルタに転地し、晩年に至る後期の作品は、世紀末の停滞した空気の中で埋没していく人間への批判と、真の人生を見出そうとする人々がテーマとなっている。代表作に『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の四大戯曲のほか、『六号室』『中二階のある家』『決闘』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』などがある。44歳で亡くなった。

立ち読みフロア
 支配人が私に言った──「わたしがこうして君を使っているのは、尊敬すべき君のお父さんに対する敬意があればこそですよ、さもなかったら、君はもう、とっくにどっかへ飛んで行っていたでしょうよ」私は答えた――「あなたはあんまりお世辞が過ぎますよ、支配人さん、私に飛ぶことが出来るなんて」その後で、私は彼がこう言っている声を聞いた――「この紳士を連れて行ってくれ、この男はおれの神経を掻(か)きむしる」
 二日たって私は解雇された。こういうわけで、もう一人前になってからというもの、私は九遍も勤務先を変え、市の建築技師である父をいたく悲しませた。私は方々の役所を渡り歩いたが、この九つの勤務はみな、二つの水滴のように、互いによく似たものであった――坐って、書いて、愚劣な、或いは粗暴な注意を聞いて、解雇される時を待っていなければならなかった。
 父は、私がその部屋へはいって行った時、眼を閉じて、ふかぶかと肱掛椅子に埋まっていた。剃(そ)り跡(あと)が青く鳩色になっている、痩(や)せた、かさかさした父の顔(父は顔つきが年とったカトリック教のオルガン弾きに似ていた)は、平和と柔順とを現わしていた。私の挨拶にも答えず、眼も開けないで、彼は言った――
「もしわしの家内が、お前のお母さんが生きていたら、お前の生活は彼女(あれ)にとって絶え間ない悲しみの種になっていたろう。わしは彼女(あれ)の早く死んだことに、有難い神様の御心(みこころ)を感じてるよ。困った奴だなお前も」と彼は眼を見開きながら続けた。「ひとつわしに教えてくれ――いったいわしはお前をどうしたらいいのか?」
 以前、私がもっと若かった時分には、近親や知人達は、私をどうすればいいか知っていた――ある人は志願兵になれと勧めたし、或る人は薬局にはいれ、或る人は電信技手になれと勧めた。が、既に二十五を過ぎて、こめかみに白髪までちらほら見え出した今では、そしてもう、志願兵にもなってみれば、薬局へもはいり、電信局にも勤めてみた今では、この地上の物はいっさい、私にとって既に涸(か)れつくしたように思われて、もはや誰ひとり忠告してくれる者もなく、みんなはただ嘆息したり、頭を振ったりするにすぎなかった。
「いったいお前は自分をどう思ってるんだね?」と父は続けた。「お前の年頃には、若い人達はみんなもう相当な社会的地位を持っている。それなのにお前はどうだ――プロレタリヤで、乞食で、親の脛(すね)かじりだ!」
 そして、例によって彼は、今の若い者は滅(ほろ)びつつある、無信仰と、物質主義と、いらざる自尊心から滅びつつあるということや、素人演劇は青年を宗教や義務から遠ざけるものだから、断然禁止すべきだというようなことを言い出した。
「明日おれが一緒に行ってやるから、お前はよく支配人に詫(わ)びを言って、真面目に勤めるからと誓うがいい」と彼は結論した。「お前なんか、社会上の地位なしに一日でも晏如(あんじょ)としてはいかんよ」

……「わが生活」冒頭より

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