◆三国志◆
羅貫中/村上知行訳
プロローグ
逝(ゆ)く川の流れに浮かぶうたかたぞ、
浮き沈むますらおのこの姿かも、
成るも、成らぬも、夢のたまゆら。
山、とこしなえに青くして、
夕日(ゆうひ)の紅(くれない)、いくそたび?
山賊(やまがつ)は、山にして春の風をたのしみ、
漁夫(いおとり)は、水のほとりに秋の月を翫(め)ず。
時ありてめぐり会えば、
酌(く)みかわす壺(つぼ)のうまざけ、
昔がたりに興味は尽きず。
第一回 桃咲く園(にわ)で豪傑三人が兄弟となり手柄(てがら)の首(はじめ)、英雄が黄巾(こうきん)の賊を斬(き)る
政治は日に日に腐敗
もともと天下の大勢は、分れて久しいと必ず合い、合って久しいと必ず分れる。周(しゅう)の末には七国が分れて争い、それが秦(しん)に合わされている。秦(しん)はほろびて楚(そ)・漢(かん)に分れ、これもまた漢に合わされたものである。漢は高祖(こうそ)が白蛇を斬り、革命のいくさをおこして天下を合わせたものであるが、のちに光武帝(こうぶてい)の中興を経、献帝(けんてい)のときに至り、このときに乱がおきて三国に分裂した。分裂のもとは桓(かん)・霊(れい)二帝に萌(きざ)したと言えそうである。桓帝は正しい人の出仕を禁じ、宦官(かんが
ん)一辺倒。その桓帝が崩じ、霊帝が位につかれると、大将軍(大元帥)の竇武(とうぶ)、大傳(たいふ)〔天子の補導者〕の陳蕃(ちんばん)が後見の役についた。ちょうど宦官曹節(そうせつ)らが権をほしいままにしていた時である。ふたりはまず、かれらの誅戮(ちゅうりく)を計画したが、機密がもれて、返り討ちにあった。宦官(かんがん)という、男であって男でない、賤(いや)しいばけものどもが、これでいよいよ勢いを得た。
建寧(けんねい)二年四月十五日。帝が温徳殿(おんとくでん)におでましになり、玉座にのぼっていかれると、殿内に突風がおき、おおきな青蛇が一匹、天井から落ちて玉座の上にとぐろをまいた。帝が気絶された。おそばの衆が、あわててお居間に抱えていく。百官がワーッと逃げだした。蛇は、まもなく見えなくなった。と、たちまちひどい雷雨となり、それに大粒の雹(ひょう)がまじった。ま夜中に、やむことだけはやんだけれど、そのときには多くの家屋が倒されていた。建寧(けんねい)四年二月。みやこの洛陽(らくよう)に地震があり、海の方でもたかしおがあって、海岸一帯の住民が大浪にさらっていかれた。
光和(こうわ)元年には、めんどりがおんどりに化け、おなじとしの六月ついたち、十余丈の黒い霧が温徳殿にとびこんだ。秋の七月、宮中の玉堂(ぎょくどう)に虹(にじ)があらわれたのと同じときには、五原(ごげん)のほうでもたいへんな山崩れが起きた。よくないしるしの連続である。帝が、いったいどうしたわけか、と群臣にご下問になる。議郎(ぎろう)〔顧問官〕の祭※(さいよう)(※は巛の下に邑)が上疏文(じょうそぶん)をたてまつった。虹(にじ)・鶏(にわとり)の妖(へんげ)は、お女中がたや変性男子が政治に口をだすからでございます
、と言うのだった。文意は適切をきわめていた。帝はそれをごらんになり、溜息(ためいき)をつかれる。まもなくお手洗いへたって行かれた。曹節(そうせつ)は帝のうしろにいて、上疏のぬすみ読みをし
て、すっかり仲間に知らせてやった。とうとうほかのことで祭※(さいよう)を陥(おと)しいれ、田舎に遠ざけた。こののち張譲(ちょうじょう)・趙忠(ちょうちゅう)・封※(ほうしょ)(※は「ごんべん」+胃−田+疋)・段珪(だんけい)・曹節(そうせつ)・侯覧(こうらん)・蹇碩(けんせき)・程曠(ていこう)・夏ツ(かうん)・郭勝(かくしょう)ら、この十人の派閥ができた。常に天子に侍奉(じほう)する十人という意味で「十常侍(じゅうじょうじ)」と号した。帝は張譲を尊(た
っと)んで「お父上(ちちうえ)」と呼ばれる。政治が日に日に腐敗し、天下の人心が叛乱(はんらん)のおきることを望み、そこらじゅうが盗賊だらけとなったものだ。
張角(ちょうかく)ことを挙げる
そのころ鉅鹿郡(きょろくぐん)に三人兄弟がいた。張角(ちょうかく)・張宝(ちょうほう)・張梁(ちょうりょう)という。張角はもと落第の書生だった。山に薬草をとりに入り、ひとりの老人にであった。碧目童顔(へきもくどうがん)、あかざの杖(つえ)を手にもつ人だ。洞窟(どうくつ)に張角をよび入れ、三巻の天書を授け、教えて言ったのである。
「『太平要術』という本である。そなた、この本の主旨により、天に替って世をただし、ひろく人民を救ってつかわせ。もしまた、まちがった考えをおこすなら、必ず仕返しがあろうぞ」張角が、おなまえは、と聞いてみた。
「わが輩は南華老仙(なんかろうせん)」
いいおわって、清風一陣、老人はみえなくなった。張角は、これより昼夜をとおしての勉強である。風や雨が自由につかえるようになった。太平道人と自称した。
中平元年正月、疫病がはやりだした。張角はお水や病気よけの護符(ごふ)をくばって病人をなおしてやり、大賢良師と自分で名のるのだった。張角には使徒が五百余人もいた。それが四方をまわっていた。みなそれぞれに護符がかけた。咒文(じゅもん)をとなえ、おはらいができた。信者は日ましにふえていく。張角はそこで三十六の「方」〔地域団体〕をたてた。おおきな方には一万余人、小さな方でも六、七千人。方ではそれぞれかしらが選ばれ、それが将軍と称していた。張角はまた「蒼天(そうてん)すでに死す。黄天まさに立たん」とか、「歳(とし)は甲子(きのえね)にありて天下大吉」などととなえ、人々に命じ、白い土で「甲子(きのえね)」と家の表門にかかせた。青(せい)・幽(ゆう)・徐(じょ)・冀(き)・荊(けい)・揚(よう)・※(えん)(※は「なべぶた」に兌)・予(よ)の八州で、人々がみな「大賢良師張角」の牌(なふだ)をまつった。張角は徒弟の馬元義(ばげんぎ)に金(かね)だの絹布(けんぷ)をもたせ、こっそりみやこに遣わした。宦官(かんがん)の封※(ほうしょ)から内応の約束をとりつけさせたのだ。張角は、弟ふたりにむかって言ったのである。
「得がたいのは人民の心。それが今やわれらに属しているのだ。こんな時に天下を取らぬばかはないぞ」
と、かくて旗挙げの用意に黄旗をつくらせた。同時に、弟子の唐周(とうしゅう)というものに手紙を托(たく)し、封※(ほうしょ)のところへ使いにやる。唐周は、これをそのすじに密告したものである。帝が大将軍
〔大元帥〕の何進(かしん)に防備を命ぜられた。馬元義がつかまって斬られ、つづいて封※(ほうしょ)ら一味が投獄された。
張角は秘密の漏洩(ろうえい)を知り、速急にことを挙げたのである。天公(てんこう)将軍と自称した。張宝が地公(ちこう)将軍、張梁が人公(じんこう)将軍。そして大衆にいってきかせた。
「漢朝は、もうだめである。大聖人が出現された。諸君、すみやかに帰順して太平を楽しむがいい」
四方の大衆が黄巾(こうきん)で頭をつつみ、張角の叛乱(はんらん)に加わった。総勢四、五十万人だ。官軍はどしどし崩れ、どしどしつぶれた。何進が帝に奏上した。即刻詔(みことのり)をお出しいただきたい、各地で賊をふせぎ、討伐を行なうように、と言うのだ。一方では中郎将〔旅団長〕の盧植(ろしょく)・皇甫嵩(こうほすう)・朱儁(しゅしゅん)の三人に、三方から兵を出すように命じた。
劉備・関羽・張飛の桃園(とうえん)の誓い

張角の一部隊が幽州のさかいへ前進したときである。幽州の太守〔地方長官〕に劉焉(りゅうえん)という人がいた。江夏竟陵(こうかきょうりょう)の人で、漢の魯(ろ)の恭王(きょうおう)の血すじであるが、賊兵きたる、との知らせを聞き、校尉(こうい)〔守備隊長〕の鄒靖(すうせい)をまねいて相談した。鄒靖が、
「賊は多勢(たぜい)、みかたは小勢(こぜい)です。兵をすみやかにお集めになりませんと……」
劉焉(りゅうえん)、がそうだ、と思った。志願兵募集の高札(こうさつ)をだした。高札がやがて※県(たくけん)(※は「さんずい」+豚のつくり)へまわってくる。すると、ここでひとりの英雄を釣りあててしまったのだ。読書のあまりすきでない人。ひととなりがおうようで、口数がすくない。喜怒を色にあらわさない。大志を胸に抱き、ふだん天下の豪傑とまじわりを結びたがっている。
身長は七尺五寸。両耳が肩まで垂れ、両手は膝の下にとどき、我が目でじぶんの耳をみることができた。面(おもて)は冠玉(かんぎょく)の如く、唇は脂(あぶら)を塗ったよう。中山(ちゅうざん)の靖王劉勝(せいおうりゅうしょう)の血すじで、漢の景帝(けいてい)のとおい孫にあたっている。姓が劉(りゅう)、名が備(び)、あざな玄徳(げんとく)。むかし劉勝の子の劉貞(りゅうてい)が、漢の武帝のとき、※鹿亭侯(たくろくていこう)(※は前記※県の※)に封ぜられた。その後、宗廟(そうびょう)の祭祀(さいし)のときに献納の金(きん)の質が規格にあってなかったとかで、侯(こう)をしくじり、民間におとされ、その血すじの一族が※県(たくけん)に残っていたのだ、と言う。備(び)の祖父は劉雄(りゅうゆう)、父は劉弘(りゅうこう)。弘は以前、地方の学生仲間の特待生で、官吏にされたこともあるが、早く世を去った。備(び)は父(てて)なし子だ。母にはいたって孝行にした。家計が苦しかったので、藁(わら)ぐつ・麻のむしろなどを編んで暮らしている。家は※県(たくけん)の楼桑村(ろうそうそん)にあり、その家の東南におおきな桑の木が一本。高さが五丈あまり。とおくから見ると、車を蓋(おお)うやねのように、うつぜんと茂っている。家相をみるものが言った。
「この家からは、貴人(きじん)がでる」
備(び)は幼時、村の子どもらと、この木の下で遊んだ。
「おれ、天子になるぞ。そしたら、この車に乗るんだ」
と言った。おじの劉元起(りゅうげんき)が、こいつ、妙なことをぬかす、と思った。
「ただものではあるまい」
と、まずしいかれの家に付けとどけをしてやっていた。
十五歳。母がかれを遊学に出した。鄭玄(ていげん)・盧植(ろしょく)に師事し、公孫※(こうそんさん)(※は王へん+賛)らと友だちづきあいをした。劉焉(りゅうえん)の高札(こうさつ)がまわってきたとき、備(び)はすでに二十八歳。
その日、高札を立ち読みして慨嘆(がいたん)していると、とつぜん、うしろから諮コ一番(れいせいいちばん)――。
「男のくせに、国のためになにもしねえで、なんだい、フーフー言ってやがる」備(び)が、あとを顧みた。身のたけ八尺、豹頭(ひょうとう)・環眼(かんがん)、つばめのあぎと、とらの鬚(ひげ)、声は巨雷、いきおいは奔馬、というような男だった。備は、そのかわったかっこうを見、その姓名をきいてみた。
「おれ、張(ちょう)ッてのよ、名は飛(ひ)、あざなは翼徳(よくとく)。先祖の代から※県(たくけん)にすみ、やしきもある、畑もある、商売は酒・豚肉だ。天下の豪傑がたとおつきあいを願っているんだが、時に、おめえさん、高札(こうさつ)をみてフーフーたあ、どうしなすった?」
備が「わたくしは劉備といいます。漢の皇室の血すじのものです。黄巾の乱を、どうかしてしずめたい、とは思うけれど、力が足りず、それでつい嘆息したのでした」
「だったら」と張飛が「金はおれが少しは出す。それでもって兵を集め、いっしょに、どうだね、『大事(だいじ)』をやらかしちゃあ……?」
備は、ひじょうな喜びだった。ふたりで村の居酒屋にはいる。飲んでいると、そこへ一人の大男が車をガラガラ押してきた。店の前まできた。はいってくる。そしてボーイに言うのだった。
「酒をよこせ。いそぐぞ。兵隊志願で城(まち)に行くんだから」
見ると、それが身長九尺、鬚(ひげ)のながさは二尺もあろうか、という男だ。顔が熟柿(じゅくし)のように赤く、唇は脂(あぶら)を塗ったよう。丹鳳(たんぽう)の眼、臥蚕(がさん)の眉、堂々たるそのふうさいに凛々(りんりん)とした威風がみなぎっている。劉備がかれをじぶんらの座席にまねいた。まず姓名を聞いてみた。
「わたくし、姓は関(かん)、名は羽(う)、あざなは、もと長生(ちょうせい)、いまでは雲長(うんちょう)と呼びかえています。河東解良(かとうかいりょう)のものですが、あちらの金持ちめが人いじめをやるので、そいつを殺して逃げ、この五、六年は旅がらすの暮らし。こんどこちらで志願兵を募集ときき、わざわざ出てきた、と、かようなわけ」
劉備は、この告白を聞き、はじめて我が志願を打ちあけてみたのである。関羽がおおいに喜んだ。張飛のやしきへ、いっしょに行った。「大事(だいじ)」の共同謀議である。
張飛が「この裏庭はいっぱいの桃の木。しかもちょうど花盛りだ。あそこで、あした、天地をまつり、三人義兄弟となり、心を合わせた上で『大事(だいじ)』といこうじゃありませんかい」劉備と関羽が「好(よ)かろう」と言う。桃の園(にわ)には、その翌日、おまつり用の黒うし、白うま、ほかにもそなえものの準備ができた。三人が香をたいて再拝した。つぎに誓詞(せいし)の朗読である。
「劉備・関羽・張飛の三人は、みょうじこそ異なるけれど、兄弟の約束を結んだ以上、同心協力、苦しむものを助け、危うきものを救い、上(かみ)、国家にむくい、下(しも)、万民を安んずるつもり。同年同月同日の生まれではないけれど、願うは同年同月同日の死。皇天(こうてん)・后土(こうど)、この志を明察あれ! もしもわれらに忘恩不義の行ないがあれば、八つ裂きをも辞しませぬ」
誓いがすんだ。劉備が兄、関羽がこれに次ぎ、張飛が弟ということにきめられた。ひきつづき三百余人の村の若いものを集め、その日は桃咲く庭で肉と酒との大ぶるまいだ。
……冒頭より |