「悪霊」(上下)

ドストエフスキー/池田健太郎訳

(上)ドットブック 447KB/テキストファイル 389KB

(下)ドットブック 427KB/テキストファイル 368KB

各巻 700円

 巻頭に、悪霊にとりつかれた豚の群れが湖に飛びこんで次々におぼれ死んだという聖書の引用を置いた本書は、無神論的革命思想を中心に、さまざまな「悪霊」が破滅へと沈んでいくさまを壮大な構想で書き上げた作品。作者はこの作品について、「主人公は一生のあいだに無神論者、信者、狂信家、または異端者に、そしてまた無神論者になっている」と述べたが、知力・体力ともに傑出した悪魔的な超人スタヴローギンは、次々と友人を巻き込みながら「破滅への道」をひた走る。 「悪霊」は欧米版では「憑かれた人々」というタイトルになっている。

フョードル・ドストエフスキー(1821〜81)モスクワのマリインスカヤ貧民病院の官舎で生まれる。17歳で陸軍工科学校に入学し、ホフマン、バルザック、ユゴー、ゲーテを耽読。24歳のとき発表した『貧しき人々』で一躍人気作家となった。しかし、1849年、出版の自由、農奴解放、裁判制度の改革について発言し、5年のあいだ投獄される。以後、海外生活を送りながら『罪と罰』『白痴』『悪霊』 『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの傑作を世に送り出した。81年、肺動脈出血により60歳の生涯を閉じた。

立ち読みフロア

 一

 さいきん私どもの、これまでべつだん特色もなかったこの町で、奇怪な事件が立てつづけに起こった。――私はその事件の話をこれから始めようと思うのだが、なにぶん才能がとぼしいので、多少遠回りになるのを承知のうえで、まず最初に、才能あり尊敬措(お)くあたわざるスチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイ氏のくわしい経歴の一部を紹介することから始めなければならない。もっとも、このくわしい経歴の紹介は、この本で物語る事件の記録の、いわば序文がわりの役目をはたすもので、私が記述するつもりでいる本当の物語は、まだずっと先のことになるのである。
 まずずばりとこう言っておこう。スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏は日ごろから私たちのあいだで一種特別な、言ってみれば進歩的文化人とでもいう役割を演じていて、しかもその役割がたまらなく好きであった。――私の見るところでは、その役割なしにはこの世に生きてゆけまいと思われたほどである。むろんこう言ったからとて、私は彼を舞台俳優になぞらえるつもりは毛ほどもない。それどころか、私自身、彼を尊敬してやまないぐらいである。思うにそれはすべて習慣のなせる業(わざ)とでも言うのか、進歩的文化人としての、美しい自分のポーズをうきうきと空想する少年時代からの、絶えざる、気高い性癖のたまものなのだろう。たとえば、彼は自分を《迫害された人物》、あるいは《追放された者》という境遇において見るのが大好きだった。このふたつの言葉には、一種の古典的なきらきら輝く光があって、それがだんぜん彼の心を誘惑してしまい、そののち長年のうちにしだいに彼の自己評価をつりあげていって、とうとうご本尊をあるきわめて高い、快いうぬぼれの台座の上に運びあげてしまったのである。十八世紀に書かれたイギリスの風刺小説の主人公ガリヴァーは、国民全部が十センチほどの身の丈(たけ)しかない小人(こびと)国から帰国したとき、自分を巨人と考える習慣がついていたので、ロンドンの町を歩きながら通行人や馬車に向かって、道をよけて注意しろ、踏みつぶすぞと大声で叫んだそうである。自分が相変わらず巨人で、相手は小人だと思い込んでいたのだ。そこで人々は彼をあざけって罵倒(ばとう)した。手荒な御者はこの《巨人》を鞭(むち)でなぐりつけさえした。だが、これは正しいことだろうか。まったく習慣というものは何をしでかすかわからないものである。スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏の場合もこれとほとんど同じだった。ただもしこういう言い方ができるなら、もっと無邪気な、毒気のない形においてである。何しろ彼が無類の好人物だったのだから。
 私はこんなふうに考えてさえいる。なるほど彼は晩年に世間からきれいさっぱり忘れ去られてしまったけれども、以前からまったく無名の人だったとは決して言えないと。それどころか、彼が一時わが国の、ひと世代前の名士たちのきらびやかな星座の仲間入りをして、ひところ――それはほんのわずかなあいだだったけれども、――彼の名前が当時の大勢のあわて者たちのあいだで、チャアダーエフや、ベリンスキイ、グラノーフスキイ、それに当時外国で活躍をはじめたばかりのゲルツェンらとあやうく一緒に引き合いに出されそうになったことがあるのは、疑いもない事実である。しかしスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏の活躍は、ほとんど始まると同時に終わりを告げてしまった。――それもいわば《諸事情の重なり合った旋風》のためなのである。ところがどうだろう。のちになって判明したことであるが、そんな《旋風》はおろか《諸事情》さえ、少なくともその場合にはぜんぜんなかったのである。つい二、三日前のこと、私ははじめて話を聞いてびっくりした。これはきわめて信頼すべき筋からの話なのだが、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏は、世間の噂とはちがってこの県内にべつだん追放者として住み着いたわけではなく、ましてや当局の監視下にあったことなど一度もなかったというのである。こうしてみると、人間の手前勝手な空想の力たるや恐るべしである。彼は一生を通じて自分がある社会層から絶えず危険視されているものと、心底から信じていた。自分の一挙一動は絶えず探知されている、この二十年間に三たび代わった三人の県知事は、赴任するにあたって政務ひきつぎの第一番に、自分に関するある特別な、厄介(やっかい)な意見を上層部から言い含められて来ているにちがいないと、信じきっていたのだ。してみると、もしだれかが正直いちずなスチェパン氏に向かって確かな証拠をかかげ、あなたは何も心配しなくていいのだとでも言い聞かせたならば、彼はきっとぷりぷり怒ったことだろう。まあそれはともかく、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏は世にも聡明な、才能豊かな人物で、言ってみれば学問の人でさえあった。もっとも、学問的には、……さよう、ひと口で言えば、学問的には彼はあまり仕事をしなかった、いや、ぜんぜん仕事をしなかったと言ってもいい。もっとも、わが大ロシア国における学問の徒は、たいていそんなものなのである。
 外国から帰ると、スチェパン氏は四〇年代の末に大学講師としてはなばなしく講壇に登場した。もっとも、講義をしたのはせいぜい四、五回で、それも確かアラビア人に関することであった。彼はまた、一四一三年から二八年にかけてドイツの小都市ハナウに生じかけた自由民権的な、ハンザ同盟的意義と、結局それが実らなかった特殊な漠然(ばくぜん)たる理由について、輝かしい学位論文を発表した。この学位論文は、当時のスラヴ派連中の急所をたくみに手ひどく突いたものだったので、彼はたちまちスラヴ派のあいだに大勢のはげしい敵を作る結果となった。そののち、――これはすでに大学を去ったあとのことだが、――スチェパン氏は(彼らがどんな有為の人物を失ったかを思い知らせてやろうといういわば報復の意味から)、その時分ディケンズの翻訳を載せたりジョルジュ・サンドの思想を宣伝したりしていた進歩的な月刊雑誌に、ある深遠な学術研究の序論を掲載することに成功した。これは確か、ある時代の騎士たちがまれに見る高潔な精神を持っていたのはなぜか、といった種類の研究だったようである。少なくともそこに述べられていたのは、何かしら高遠な、珍しく立派な思想であった。もっとも、のちに語られた噂によると、この学術研究はたちまち当局から続篇を禁止され、その進歩的な雑誌までが前篇を掲載したために苦(にが)い目に会ったという。どんなことでも起こった当時のことゆえ大いにありそうな話であるが、しかし実は何事も起こりはせず、ただ著者が不精して研究を仕上げなかったと言ったほうがいい。

……第一章 「尊敬すべきスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏のくわしい経歴の一部」冒頭より


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