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「音なし源捕物帳」(巻六)
笹沢左保作 315円 |
| 豆やあ…… 枝豆え……。 と、枝豆売りの声が、遠くから聞えて来る。この枝豆売りの声が、夏の訪れを実感として知らせるのである。夏を迎えた江戸の夜の風物詩の一つであり、去年のあの頃から一年がすぎたのかと、江戸っ子たちを感傷的にさせる声でもあった。 まだ宵の口であって、両国元町の『春駒』も客が押しかける前の静寂の中に沈んでいた。この、ほんの三十分間が『春駒』の店の静けさを、しみじみと感じさせるときだったのだ。 昼間の静寂とは、異質なものであった。店の中は、昼間のように明るかった。客を迎えるべく用意万端が整っていて、暖簾が夜風に揺れ、店内の飾りものが一様に光っている。 店の奥には突き出し、各種の肴がいつでも需要に応じられるように取り揃えてある。酒の燗の準備もできているし、給仕女たちがタスキ姿も甲斐甲斐しく待機していた。 それでいて、店には人影がない。そういう三十分間で、嵐の前の静けさに似ている。緊張感を伴いながらも、何となくのんびりとしているのである。…「 長屋の賭け」冒頭 本巻には「斑らの蝶」「盗まれた片腕」「長屋の賭け」「飛ぶ稲妻」「笛の女」の5編を収めた。 |
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| 立ち読みフロア | |
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雲一つない青空、という晴天続きであった。このところ、江戸のその青空を魚が泳いでいる。一年に一度、端午(たんご)の節句の前後半月間に見られる空の魚である。 晴天続きは、願ってもないことであった。雨が降り出せば、鯉幟(こいのぼり)をおろして家の中へ取り込まなければならなかった。どうやら今年は、そうした煩わしさもなく、手間が省けそうだった。 夜間も取り込まずに、鯉幟をそのままにしておく家が多かった。夜になると風が鎮まるので、気にかけずともすむのである。紙の鯉幟はともかく、布製であれば夜露の影響が殆どない。 昼間は風が強く、どの鯉幟も水平に泳いでいる。大きな商家になればなるほど、立派な鯉幟が目立っていた。陰の気を払うために、ショウブやヨモギを軒下に差している家が多かった。 節句ともなると、人出が大変であった。特に男子の節句だから、その喜びが家の外へ出る。家の中での祝いに賑わう女子の桃の節句とは、まるで対照的であった。 「ちょいと、ぶらぶらして来るか」 縁側で足の爪を切りながら、源太はそう呟いた。住まいの中にいて日射しを浴びていると、汗ばむくらいの陽気であった。 「待っておくれな」 鏡台の前にいるお小夜が、源太の独り言を聞いて振り返った。 「おめえも、一緒に行くかい」 ハサミを投げ出すと、源太は顔中を被っている濃い無精髭を撫で回した。 「当たり前じゃないか。折角の休みなんだもの」 お小夜が甘えて、鼻にかかった声を出した。今夜一晩だけ、『春駒』は休業するのである。珍しいことだが、節句に一日ぐらいは休まないと、板前や給仕女たちに気の毒だったのだ。 「だったら、早くしねえな」 源太は、着物の前を改めた。しかし、そんなことをしても、様子のいいお哥兄(あにい)さんになるはずもなかった。無恰好で、だらしのない着流し姿に変わりはないのだ。 鏡台の前を離れたお小夜の姿は、また逆に艶(あで)やかすぎた。粋で色っぽくて、惚れ惚れするようないい女である。これほどの年増は、広い江戸にもざらにはいない。 そうした源太とお小夜が連れ立って歩くのだから、まるで釣り合いがとれなかった。夫婦には見えない。源太が一歩遅れて歩けば、姐(ねえ)さんと三下の子分ということになる。 「どっちを見ても、五月幟(さつきのぼり)じゃあねえかい」 源太が歩きながら、空を見渡した。ドジで間抜けでウスノロの源太が前を行き、半歩遅れてお小夜がそれに寄り添って歩く。五月幟とは、もちろん鯉幟のことである。 「でもさ、その五月幟に何てえ悪戯(わるさ)をするんだろうねえ」 お小夜が言った。 「緋鯉の目の玉を、矢で射るってえ例の騒ぎかい」 「そうさ」 「そう言えば、もう何軒になるんだ」 「昨日までの三日間に回向院の近辺で、中津屋さん、高野屋さん、越中屋さん、松崎屋さん、美濃屋さん、黒田屋さん、それに土佐屋と七軒の商家が、やられているんだよ」 「商家ばかりか」 「狙われるのは、奉公人が十人はいるという商家に限られているみたいだね」 「鯉幟を立てるくれえだから、伜(せがれ)がいねえってはずはねえだろう」 「伜も娘もいるって商家ばかりだよ」 「何のつもりかはわからねえが、こいつはただの悪戯じゃあねえな」 源太は、結んである左袖の揺れを、押さえるようにした。誰もが単なる悪戯と見ているのだが、このところ奇妙なことが流行しているのだ。 何者かが鯉幟の緋鯉の目玉を狙って、矢を射かけるのであった。矢は正確に鯉の目玉を貫いている。しかし、矢羽根まで抜けないので、矢は通過せずにそのまま鯉幟に引っかかっていた。 半弓の矢であった。半弓は長さ二メートル二十五センチの大弓の半分しかなく、一メートル十センチほどの長さであり、すわっていても射ることができる。 その半弓の矢であって、手製ではないが粗末なものであった。矢羽根も鷲、鷹、鴇(とき)のものではなく、雑羽(ぞうは)と呼ばれている安物であった。 だが、矢筈(やはず)もしっかりしているし、矢尻は鋭利な金属でできていた。武具屋で買い込んだ稽古用の弓と矢を、使っているのに違いなかった。 両国回向院の周辺の商家七軒が、同じ矢で緋鯉の目玉を射られているのである。三日間にわたり、早朝の人目につかない時刻を選んで、射ているようだった。いったい何のために、そのようなことをするのか。誰もが腕を組み、首をかしげてしまう。何の得にもならないことだし、無意味な悪戯としか考えようがないのである。 「五月幟の鯉の目を的にして、弓矢の稽古をしているんじゃないのかねえ」 お小夜が言った。 「空を泳いでいる鯉の目の玉を、寸分の狂いもなく射抜いているんだろう。余程、弓が達者なやつでねえと、とてもできねえ芸当だぜ。そんなやつが今更、他人さまの五月幟で弓の稽古をするとは思えねえ」 源太はまた、トロンとした目で鯉幟を見上げた。 「そうかねえ」 お小夜は指先で、頬をつっ突くようにしていた。真下に近づいて、矢を射かけるのではなかった。他の家の裏庭などに立ててある鯉幟を、外の路上から射ることになる。 距離もかなりあって、斜め下から射らなければならない。しかも、的は絶えず風に煽られ、躍っている鯉幟で、緋鯉の目玉を正確に射抜くのだから、それはもう芸当というものだった。 「おれの知り合いに、弓矢の乙吉って野郎がいた。板前崩れの遊び人だが、こいつが滅法、弓がうまくてな」 源太は言った。 「弓矢の乙吉って遊び人かい」 お小夜が、妙に感心したように頷いた。 「目をつぶって、飛んでいる雀を射落すくらいの腕前だった。名人だってんで、弓矢の乙吉と呼ばれるようになったのさ」 「いまでも、知り合いってことかい」 「とうの昔に、離れ離れになっちまったよ。おれが上州長脇差の修業中の頃で、乙吉ってのはおれの弟分だった」 「江戸者かい」 「江戸無宿だったから、そうだろうよ。板前らしく、気風(きっぷ)のいい野郎でね」 「板前って言えば、うちの善さんが暇をくれってことなんだけどさ」 「そいつはまた、どうしてなんだ」 「洲崎の兄さんの店を、手伝いたいそうなんだよ」 「だったらまあ、仕方がねえだろうな」 「だって、お前さん。善さんほどの板前になると、ちょっとやそっとじゃ見つからないんだから……」 「店のことに、おれが口出しはしねえって約束を、おめえのほうが取り付けたかったんじゃあなかったのか」 源太はそう言って、えヘヘと笑った。善さんというのは、『春駒』の煮方の板前であった。その善さんが『春駒』をやめたいと言っているなどと、話がとんでもないほうへ飛んでしまっていた。 回向院の門前の盛り場は、いつもの賑わい以上の人出で混雑していた。道の両脇が、人の渋滞で埋まっている。真中が、通り道になっていた。 ふと、源太は脇を見ていて、正面に人の気配を感じた。小走りに来た男が、源太の目の前に迫っていたのである。源太は反射的に、それを避けようとした。 だが、左右に人波があって、よける余裕がなかった。間に合わずに、源太の身体の左半分が相手の胸にぶつかった。その瞬間に、しまったと源太は思った。 相手の男は、遊び人ふうであった。それだけに、薄ぼんやりとはしていない。そう源太が危惧した通り、相手の男の両手が懐中にあって、そっと撫でさするように動いたのだった。 源太は左腕を晒に巻き込んで、肩の付け根からないみたいに見せかけている。しかし、身体の側面に余計なものがあるわけだから、手で触れたり撫で回したりしてみれば、それが何か見当もつくのであった。 「こいつはどうも、申し訳ねえことを……」 源太は、慌てて謝った。その源太の顔を、男は睨みつけるように見つめていた。二十五、六の男で、目つきが鋭かった。しばらくたって、男はニヤリとした。 「おめえさん、妙な趣味を持っているじゃあねえかい」 男は両手で、源太の隠された左腕を撫で回した。そのあと、男は源太を押しのけるようにして、さっさと歩き出していた。 ……「盗まれた片腕」冒頭 |
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