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素人義太夫はどこへ行っても流行いたしておりますが、俗に旦那芸(だんなげい)と申しまして、なかにはずいぶん不結構(ふけっこう)なものがございます。お師匠さんのほうでもまた、銭(ぜに)取り主義で教えます。節まわしなどはどうでもかまわない、段数(だんかず)さえ上げればそれでよい、はななだしいのになると一段の浄瑠璃(じょうるり)を三日で上げるなどというのがあります。
さて覚えこんでみると、誰かに聞かしてみたいという、不了簡(ふりょうけん)を起こすのは人情。けれどもまさかに目上の者を呼びつけて、強制的に聞かせるわけにもいかないという、人間としてそのくらいの常識はありますから、目下の者を呼びつけて、強制的に聞かせるというのがございます。つまり資本家の圧政、今ならば出入りの職人だろうが、店借(たなが)りだろうが、そんなことにはなかなか応じませんが、まだ明治時代まではこういう人が幅をきかせておりました。もちろん客をするのだから、料理人を呼んで酒肴(さけさかな)の用意をする、下戸(げこ)には甘い物をそれぞれ馳走(ちそう)してもてなしをしますが、それでも下手(へた)な浄瑠璃を聞くのがつらいから何とかいって、のがれる算段(さんだん)をする者が多い。
主「アア繁蔵(しげぞう)大きにご苦労だった、スッカリまわって来たかえ」
繁「ヘエ行ってまいりました」
主「今日は漏(も)れなくまわったろうね。このまえ太兵衛(たへえ)にまわらしたが、提灯屋(ちょうちんや)の吊右衛門(ぶらえもん)のとろへ知らせるのを忘れたんで、そのご吊右衛門が俺(おれ)の顔さえ見ると愚痴(ぐち)をこぼしてこまった。先(せん)だってはお浄瑠璃をお語りなさったそうで、なんで私どもへはお知らせ下さいませんでしたかと怨(うら)みをいわれて弱ったよ。今日はおまえのこったから漏(も)れなくまわって来たろうね」
繁「ヘエ残らずまわりました。ところが旦那様、あいにく今晩は、みな予定がありまして、提灯屋はお祭りを前にひかえて大いそがしで、豆腐屋へまいりましたら、どこからかがんもどきの注文を受けて今晩徹夜(よあかし)をするようなわけで伺(うかが)われないと申します。頭(かしら)は明朝(みょうちょう)一番の汽車で小田原の道了様(どうりょうさま)へ参りますので、今夜講中(こうちゅう)の者と打ち合わせの寄り合をいたしますのだそうで……」
主「アアわかったわかった、モウよい。それじゃァ誰も来ないのだね。つまり私の義太夫が拙(まず)いから聞くのがつらいというので、長屋の者はありもしない用をいいふらして断わるのだろう、モウ止(よ)しますよ。ナニ浄瑠璃さえ語らなければいいんだ、師匠も断わってしまいなさい。料理人なんぞ追い帰してしまえ、繁蔵モウいっぺん長屋をまわってな、少々都合がございますから、明日正午(ひる)までに店(たな)を全部引き払って下さいと言い渡してきてくれ、……ナニ乱暴なことはない、店を貸すときに、何日(いつ)何時(なんどき)でもご入用のときにはお明け申しますという証文(しょうもん)が入ってるんだ。義太夫の情合(じょうあい)が分からないような者には、店を貸しておかれない。それから店(みせ)の者もそうだ。私の家(うち)に奉公していれば、たまには下手な義太夫も聞かなければならず、さだめし辛(つら)かろうから、今日かぎり一同へ暇(ひま)をあげる。どうか今夜のうちにみんな出ていってもらいましょう」
と旦那がスッカリ怒ってしまった。なにしろ店子(たなこ)には店立(たなだ)て、奉公人には暇が出るというのだから穏やかでない。モウいっぺん長屋を触れ歩くと、店立(たなだ)てを食うより義太夫を聞いたほうがいいだろうというので、しぶしぶながらみんなやって参りました。
繁「エー旦那様」
主「モウ寝ますよ」
繁「ただいま、アノ、お長屋の衆(しゅう)が参りました」
主「長屋の者が来るわけがない、みんな用があるんだ」
繁「それがただいま揃(そろ)ってやって参りました」
主「揃って来たって、モウ私は義太夫を語らないといったら語りませんよ。帰しておしまい」
繁「アアさようで、それではそう申しましょう」
主「オイいくら物は正直がいいったって、正直すぎるよ。帰しておしまいと聞いて、ヘエそうですかとはなんだ、こっちもモウ一度ぐらいすすめるだろうと思うから、懸引(かけひき)でいったんだ、せっかく来たものを語らないと、また後日(ごじつ)私が何とかいわれるんだ、あの旦那もいいけれども、芸惜(げいお)しみするのが悪いとか何とかいうだろう。仕方がない語ろう」
繁「アアさようで、それではこちらへ通しましょう」
主「早く通すがいい……、オイオイ師匠にそういってな、どうか少し調子を……ナニ師匠は帰してしまった。いけないな、早く迎えに行ってきな。支度(したく)はいいかい、料理のほうの……ナニことわってしまった。いけないよ、早く呼んでおいで、湯(ゆ)は沸(わ)いているだろうな、……なんだ、モウみんな空(あ)けて洗濯物をつけてしまった。早いな、こんなことはいい出してから二時間ぐらい猶予するもんだよ。早く湯を沸かしておくれ……」
○「ヘエ今晩は」
△「ヘエ今晩はありがとうさまで」
○「ヘエ今晩は」
主「サアサアどうぞこっちへ、オヤオヤたいそうお揃いで、オヤ豆腐屋さん今晩は、お前さんは今晩、徹夜(てつや)で仕事をなさるということじゃないか」
○「ヘエ、どうもお使いを有り難う存じました。先ほども申し上げましたとおり、今晩は徹夜で仕事をするつもりでしたが、なにがさて好きなでございますから、今頃は旦那様が何をお語りになっておいでなさるかと思うと、ウカウカとして仕事が手につかず、三角の雁(がん)もどきをこしらえたりいたしますものですから、家内のいいますには、それほどまでにお前さんが聞きたいのなら、代わりを入れて行ったらいいだろうと申しますので、今しがた代わりを入れまして伺(うかが)いに出ましたような訳でございます」
主「アッハッハ、そうかいイヤ恐れ入ったね、代わりを入れてまで聞きに来てくれるとは、イエその手間(てま)ぐらいのことは、後日にどうにでもご相談に乗りますよ、どうぞこちらへ……オヤオヤお頭(かしら)、お前さん、明日(あした)の朝一番で小田原へ行くといったじゃァないか」
頭「ナーニ小田原へ行くなんといったなァ嘘っぱちで、イエ、嘘っぱちという訳でもねえんですけれども、さっき繁蔵さんが来て、今夜義太夫をやるから来いというから、しまった、ナニそいつァありがてえ、たとえ腐った半纏(はんてん)の一枚でも……イエナニ腐るほど下さるんだから、たまにはヘッポコ義太夫、じゃァねえ、けっこうな義太夫を聞かして下さるんだ、ふだん長屋の者もそういってるんで、アノ旦那もいい旦那だが義太夫さえやらなけりゃァ……義太夫をやるからけっこうだが、どうせ旦那様のことだから、お上手なことだってんで、マアなにしろお目出とうごぜえます」
主「なんだかサッパリ分らないな、どうぞみなさんあっちへ行って……、それから飲み手の方は左り側、下戸(げこ)の方は右側へおすわんなすって……」
○「どうも恐れ入ります、モウおかまい下さいませんように」
主「それでは今じきに始めますから……」
○「イヤ今晩はご苦労様で……、どうも驚ろきましたな、店立(たなだ)てには驚きましたよ。全体ここの旦那は何の因果(いんが)で、こんなに義太夫を語りたがるのだろう」
△「それはいくら語ったって、先方(むこう)の勝手だが、聞かせられる方こそいい面の皮だ、悪い声というのは世間にいくらもあるが、当家の主人みたような妙な声を出す人は類(るい)がありませんね、夜半(よなか)に動物園の裏手を通るとアアいう声が聞こえますがね、なにしろ不思議ですよ、こないだは横町の袋物屋(ふくろものや)の隠居が、この旦那の義太夫を聞いて家へ帰るとドッと熱が出まして早速医者に診てもらうと何だかサッパリ分らない。だんだん調べてみたところが、義太夫を聞いてから熱が出た、義太夫熱といって、これはいくら医者でも薬のもりようがないそうだ」
○「たいへんな義太夫ですね」
△「だから私は気付薬(きつけぐすり)の用意をして来ました」
□「お話が出たからいいますが、私もじつは石炭酸(せきたんさん)の強いのを少しばかり持って来ました」
△「なるほどそれはいい思い付きだ、石炭酸ならたいがいの微菌(ばいきん)は死んでしまう、……なんですそこでメソメソ泣いてらっしゃるのは、気が早いね、義太夫を聞かないうちから泣いているのは……オヤ鈴木さんの若旦那じやァありませんか」
若「さようでございます」
○「マアこっちへお出でなさい、どうなさいました」
若「ヘエ、今晩はどうも、とんだ親不孝をいたしました」
○「ヘエ、それは怪(け)しからん、あなたは町内で若い者のかがみにされてるんですよ、そのあなたが義太夫のために、親不孝をしたというのはどういう訳で……」
若「マアお聞き下さい。今朝私が横浜へ用達(ようた)しに参りましたのは、本当の話なんで、いい塩梅(あんばい)に用が早く片づきましたから、急いで帰って参りますと、なんだか胸騒(むなさわ)ぎがしてたまりません、宅へ戻って格子(こうし)を開けますと、患(わずら)っている阿母(おふくろ)が床から這(は)い出して来ました、下駄(げた)を出してくれと申しますから阿母(おっか)さんどこへお出でなさると聞くと、旦那のところから義太夫を聞かしてやるから来いというお使いがあった、一度はお断りをしたが、最前のお使いで、聞きに来なければ店立(たなだ)てを食わせるとおっしゃるから、私はこれから行くのだとこう申します。それは阿母(おっか)さん、とんでもないことをおっしゃる。身体(からだ)の達者の者が聞いてさえ二三日熱が出るという義太夫、ましてやご病人のあなたなどがお聞きになれば、たちどころに命を取られます、私が代わりに行って参りますというと、イヤイヤお前はまだ生先(おいさ)きの長い身体、万が一のことでもあったあかつきには、私が親類の者に聞かれても面目(めんぼく)ない、私はどうせモウ生先(おいさ)きのない身体ゆえ、命を落としたところで惜しくはないのだから、なんでも行くと申します、それは阿母(おっか)さんいけません。親のかけがえはないというじゃァありませんか。子の私がみすみすあなたが殺されにいらっしゃるものを、なんで見ていられましょう、私が代わりに行って参りますとおふくろをつき飛ばして出て参りましたが、後(あと)でどうなすったかと思って苦労で苦労でたまりません、近ごろ警視庁でも悪疫(あくえき)流行の折柄(おりがら)衛生上についていろいろ注意をして下さるのはありがたいが、なぜこの義太夫のような人間に害を与えるものを差し止めないのでしょうか、私は警視庁を怨(うら)みます」
○「冗談いっちゃァいけない、マアマア少しご辛抱(しんぼう)なさいよ、今にどうにかしてズラかして上げますから、時に今夜は旦那はどのぐらい語るんでしょう」
△「サア、どのぐらい語りますかな。だいたいの見当がついてると、またそのように覚悟もしますがね」
○「一ツ聞いて見ましょう……エー旦那、今晩はどういうお浄瑠璃が出ましょうか」
主「えらい、どうも恐れ入ったね、あなた方は。それほどにあなた方で力を入れて下さると、私の方でも張り合いがある、たくさん語りますよ」
○「藪蛇々々(やぶへびやぶへび)。たくさんと申してどのくらい……」
主「まず最初は咽喉(のど)調べのため、簾内(みすうち)を語ります、橋弁慶(はしべんけい)」
○「なるほど、お勇ましいお浄瑠璃でございますな」
主「その次が、伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)、御殿政岡(ごてんまさおか)忠義の段、その次が艶容(あですがた)女舞衣(おんなまいぎぬ)、三勝半七(みかつはんしち)酒屋の段。そのあとが三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)、平太郎住家(へいたろうすみか)から木遣(きやり)。これば私の専売ものだから、これを聞いてもらいたいね、その次が菅原伝授手習鏡(すがわらでんじゅてならいかがみ)、松王丸屋敷(まつおうまるやしき)から手習小屋(てならいごや)まで、次が関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)、猪名川(いながわ)の家から櫓太鼓(やぐらだいこ)の曲弾(きょくび)きで、お三味線にもうけさせる」
○「アア三味線にもうけさしておしまいというので」
主「イエまだ肝腎(かんじん)のものが出ません。玉藻前旭袂(たまものまえあさひたもと)三段目、道春館(みちはるやかた)の段、本朝二十四孝(ほんちょうにじゅうしこう)三段目、勘助住家(かんすけすみか)の段、彦山権現誓助剣(ひこざんごんげんちかいのすけだち)毛谷村六助家(けやむらろくすけうち)の段、播州皿屋敷鉄山館(ばんしゅうさらやしきてつさんやかた)の段、恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)、城木屋店(しろきやみせ)から鈴ケ森(すずがもり)まで、近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)お俊伝兵衛(おしゅんでんべえ)堀川猿廻(ほりかわさるまわし)で、またちょっと三味線にもうけさせる」
○「それでおしまいで」
主「イヤイヤ、まだ私のお得意ものが出ません。伊賀道中双六(いがどうちゅうすごろく)、沼津(ぬまづ)の段、碁盤太平記(ごばんたいへいき)、白石噺新吉原揚屋(しらいしばなししんよしわらあげや)の段。釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)、継子(ままこ)いじめの段。そのあとは一の谷熊谷陣屋(いちのたにくまがいじんや)、仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)、大序(だいじょ)よリ十二段までぶっ通し、あとに紀州返(きしゅうかえ)しまで語る」
○「たいへんお語りになりますな」
主「二百八十六段」
○「ホウ……今晩中に語り切れましょうか」
主「とても今夜中には片がつきませんよ。まず明後日(あさって)の夜の白々(しらじら)明けですね」
○「やっぱり提灯引(ちょうちんび)けで」
主「そりゃ葬式(とむらい)じゃァないか、今すぐに始めます」
そのうちにデデンと始まりました。
○「サアみなさんご注意なさいよ、なるべく頭を下げていらっしゃい、頭を下げているといくらか声が上を通過してしまいます。油断をして頭を持ち上げたところを、胸へ一発ズドンと来ると致命傷ですよ、義太夫は拙(まず)いが、この通りご馳走がようがすからね。アア一つ献(けん)じましょう」
○△「これはどうも恐れ入ります、……イヤなかなか良い酒です。この旨煮(うまに)を一つやってご覧なさい」
○「ダガこうやって黙って飲んだり食ったりばかりしていても悪い。少しは誉(ほ)めなけりやァいけますまい」
△「ほめるところなんぞありやァしない」
○「なくっても誉めなけりやァ義理が悪い」
△「それじゃぁ誉めますよ、うまいうまい三味線が」
○「アレ、三味線を誉めちやァ何にもなりません。旦那を誉めるんだ」
△「うまいうまい口取(くちと)りが」
○「誰だい、口取りを誉めるのは」
勝手なことを言いながら、飲んだり食ったり、義太夫を聞いてる者なんか一人もない。そのうちに腹の皮が張って来るにしたがって、目の皮がだんだん弛(ゆる)んで来る。最初はコックリコックリ居眠りをしていたが、しまいにはグウグウ高鼾(たかいびき)、魚河岸(うおがし)へ鮪船(まぐろぶね)が着いたようだ。旦那も夢中になっていたが、あまり前が静かなので、さてはミッシリ聞いているのかと、簾(みす)をソッと持ち上げて見るとこのテイタラクだから、
主「師匠ちょっと待って下さい。どうも呆(あき)れた人達だ、人に義太夫を語らして置いて寝てしまうとは何事です、どうかみなさん起きて下さい、けしからん人達だ。散々ぱら飲んだり食ったりした挙げ句に、寝てしまうとは何事だ、お帰り下さい、また番頭の与兵衛(よへえ)もそうだ、禿頭をしやァがって、鼻から提灯(ちょうちん)を出して寝ていやがる、番頭起きろ起きろ」
与「ヨウヨウうまいうまい」
主「なにがうまいんだ、モウ義太夫はおしまいだ」
与「惜しい――」
主「嘘をつけ、呆(あき)れたねえ――、誰だいそこで泣いてるのは、アア定吉(さだきち)かい、こっちへ来な」
定「ヘエ」
主「どうした」
定「悲しうございます」
主「悲しうございます。えらい、アアやって大人がみなだらしなく寝てしまう中(うち)に、貴様だけが、おれの浄瑠璃を聞いて悲しうございますといって、泣いているのは天晴(あっぱ)れ見込みのある奴だ。サアこっちへ来な。褒美(ほうび)に何かやるぞ、シテどこが悲しかった。待ちなよ、子供のお前が身につまされるものというと、千代萩の千松(せんまつ)だな、お腹(はら)が空(す)いても飢(ひも)じうない、あの辺かな」
定「そんなところじやァありません」
主「ハハア、それじやァ宗五郎(そうごろう)の子別れか」
定「そんなところでもないんで」
主「釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)の継子(ままこ)いじめ」
定「そんなところじやァありません」
主「そうでもねえとすると、どこが悲しかった」
定「あすこでござんす」
主「あすこは今、俺が義太夫を語った床(ゆか)だ」
定「あすこが私の寝床でございます」
解説――大阪では単に「床」と言っている。名作である。
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