「謎のクィン氏」(1・2)

アガサ・クリスティ/石田英士訳

(1)ドットブック 177KB/テキストファイル 113KB

(2)ドットブック 175KB/テキストファイル 110KB

各巻357円

「謎のクィン氏」は12編からなる異色の、ファンタジーあふれる連作ミステリー短編集。初老のサタースウェイト氏が事件に直面すると、いつのまにかハーリー・クィン氏が出現して、事件の解決に力を貸してくれる。だが、クィン氏は再び忽然と姿をくらます。雑誌連載方式を断ってまで、クリスティが大事にし、一作一作を丁寧に書き上げた連作。他のクリスティ作品とは一味ちがう風味を楽しめる佳品。第1集には、「クィン氏登場」「窓ガラスに映る影」「道化荘奇聞」「大空に現われた兆(きざし)」「ルーレット係の魂」「海から来た男」の6編を、第2集には、「闇の声」「ヘレンの顔」「死んだ道化役者」「翼の折れた鳥」「世界の果て」「道化師の小径」の6編をおさめた。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「アクロイド殺人事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
「わたし、マージョリーのことが、ちょっと心配なんですのよ」とストランリー令夫人はいった。「わたしの娘ですの、ね」と、彼女はつけ加えた。
 彼女は考えこんだように、溜息をついた。「大きくなった娘を持つと、ひどく年をとったような気分になりますわ」
 こういった打明け話を聞かされたサタースウェイト氏は、紳士としての勤めを立派に果した。
「そんなことがあろうなんて、誰も信じられませんよ」と断言しながら、彼はちょっと頭をさげた。
「お上手ね」と、ストランリー令夫人は言ったが、その口調はぼんやりとしたもので、彼女の心が他所に走っていたことは明らかだった。
 サタースウェイト氏は、白い衣裳をまとった、細っそりとした姿を、幾分感嘆しながら眺めていた。カンヌの日光は鋭かったが、ストランリー令夫人は、見事にその試練をくぐり抜けていた。実際、すこし離れたところから見ると、その若々しさは、けたをはずれたものだった。大人かどうか、ほとんど迷うくらいだった。何でも知っているサタースウェイト氏は、ストランリー令夫人には、大きくなった孫があっても、ちっともおかしくない歳だと承知していた。彼女は人為が自然に対して勝利した最高の例を示すものだった。スタイルも見事なものなら、肌の色もすばらしい。彼女は多くの美容院に金を注ぎ込んでいたが、たしかにその成果は驚くべきものであった。ストランリー令夫人は巻き煙草に火をつけ、最高級の肌色のストッキングに包んだ美しい脚を組むと、呟いた。
「ええ、ほんとにマージョリーのことでとても悩んでますの」
「おやおや」と、サタースウェイト氏は言った。「どうしたんですか?」
 ストランリー令夫人は、その美しい青い目を彼に向けた。
「娘にはお会いになったことがありませんわね? あの娘はチャールズの娘ですのよ」彼女は言い添えた。
 名士録が厳密に真実を記載するものとしたら、ストランリー令夫人についての記事は、次のように終っていたことだろう。
《趣味、結婚すること》
 彼女は、途中で夫を幾人かポイポイと捨てながら、人生を漂って来たのだ。彼女は離婚で三人、死亡で一人を失ったのだった。
「あの娘がルドルフの娘だったら、まだわけも分かるんですけど」と、ストランリー令夫人は思案顔にいった。「ルドルフを覚えてらっしゃるでしょ? あの人はいつだって気まぐれ屋でしたわ。結婚して六カ月もしたら、例の妙なものを請求しなくちゃなりませんでしたのよ――何ていったかしら? 夫婦の同居義務とか何とかって〔夫婦の一方が家を出たとき、離婚訴訟の前提として、裁判所が同居を命令し、この命令に従わなかったとき、六ヵ月後に離婚訴訟が提起できる〕、ほらご存じでしょ。ありがたいことに、近頃では、すっかり簡単になりましたわね。ほんとに馬鹿馬鹿しい手紙をあの人に書かなくちゃならなかったのを覚えてますわ――ほとんど弁護士の言う通りに書いたんですのよ。あの人に帰って来てくれと頼んだりね、それに、出来ることは何でもいたしますとかなんとか。でもルドルフって人は全く当てには出来ないんですのよ、ほんとにむら気な性質なんですから。あの人ったら予想に反して、とたんにすぐ飛んで帰って来ましたのよ。そんなことをするのは全くの間違いで、弁護士はそんな心算じゃなかったんですのに」
 彼女は溜息をついた。
「で、マージョリーのことは?」と、サタースウェイト氏は言い出し、たくみに彼女を、目下の話題へと連れ戻した。
「もちろんですわ。いまお話しするところだったのよね? マージョリーには、妙なものが見えたり、聞こえたりするんですの。幽霊とか、なんとか、そういった風なものがね。マージョリーがそんなに想像力に富んでるなんて、思ったこともありませんわ。いい娘ですのよ、昔っから。でも、ほんのちょっと――鈍感ですけど」
「まさか」とサタースウェイト氏は、お世辞を言おうとまごつきながら呟いた。
「いえ、ほんと。とても鈍感ですの」と、ストランリー令夫人はいった。「ダンスとか、カクテルパーティーとか、若い娘なら当然関心を持ってもいいことには、気がありませんの。あたしと一緒にこっちへ出て来るよりも、故国(くに)の方にいて猟をするほうがずっといいって言うんです」
「おや、おや」と、サタースウェイト氏はいった。「お嬢さんは、あなたと一緒に出てこようとはなさらない、と言われるんですね?」
「そりゃ、あたしだって、ぜひといったわけでもありませんけれど。娘ってものを連れてますと、何かと気が滅入りますものね」
 サタースウニイト氏は、ストランリー令夫人が、お堅い性質の娘を連れている様を想像しようとしたが、駄目だった。
「あたし、マージョリーの頭がどうかなるんじゃないかって気がしてなりませんのよ」と、マージョリーの母親は、陽気な声で続けた。「いろんな声が聞こえるってのは、たいそう悪い徴候だってことですものね。まさかアボッツ・ミードに幽霊の出るわけはなし。昔の建物は一八三六年に全焼して、初期ヴィクトリア朝風の館を建てたんですから、あそこに幽霊が出るなんてことは、あり得ません。あまりに陳腐で平凡すぎますもの」
 サタースウェイト氏は咳払いをした。彼はなんで自分がこんな一部始終を聞かされるのか、不思議に思っていた。
「ひょっとしたら」と、ストランリー令夫人は、彼にほほえみかけながらいった。「あなたなら、お力になって頂けるかもしれないと思ったものですから」
「わたしが?」
「ええ。あなたは明日イギリスヘお帰りになるんでしょ?」
「ええ。そりゃそうですが」と、サタースウェイト氏は用心深く認めた。
「それにあなたは、精神分析の学者をいろいろとご存じですもの、もちろんご存じですわね、あなたはお顔が広いから」
 サタースウェイト氏は、ちょっとほほえんだ。顔の広いのは、彼の弱点の一つだった。
「だから、これほど簡単なこともないでしょう?」と、ストランリー令夫人は続けた。「あたしはどうもああいう人たちとは、うまく行きませんの。ね――お髭(ひげ)を生やして、たいがい眼鏡をかけた、真面目な殿方。あの人たちにはすっかり退屈してしまいますし、あの人たちと一緒じゃ、ほんとにうんざりするものですから」
 サタースウェイト氏は、ちょっと呆気にとられた。ストランリー令夫人は、彼に向かって、はればれと微笑し続けた。
「じゃ、これですっかり決まりましたわね?」と、彼女は明るくいった。「アボッツ・ミードへいらしって、マージョリーにお会い下さって、万事お取り決めになってくださいな。ほんとに有難いと思いますわ。もちろん、もしマージョリーがほんとに気が変になりかけてるんでしたら、あたしも家へ帰りましてよ。あら! ビンボーが来ましたわ」
 彼女の微笑は、はればれとしたものから、まばゆいほどのものに変わった。
 白いフラノのテニス服を着た青年が、彼らに近づいていた。彼は二十五歳くらいで、じつに美しい顔立ちだった。
 青年はただこういっただけだった。「いろんなところを探しましたよ、バッブズ」
「テニスはどんな具合い?」
「てんでつまらんものでした」
 ストランリー令夫人は立ち上がった。彼女は肩ごしに頭を振り向けて、サタースウェイト氏に、甘ったるい調子でささやいた。「お力になって頂けるなんて、ほんとにすばらしいですわ。いつまでも忘れませんことよ」
 サタースウェイト氏は、去って行く二人の後姿を見送っていた。
 さて、どうかな、と彼はひそかに考えていた。ビンボー君は第五号になるのかしらん。

……「闇の声」冒頭より


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