「マトリョーナの家」

ソルジェニツィン/木村浩訳

ドットブック版 151KB/テキストファイル 161KB

400円

夫に棄てられ6人の子供を亡くしたマトリョーナ…だがお人よしで馬鹿正直、他人のためにただ働きばかりしながらも、大らかな気持ちを絶やすことはなかった。そんな彼女に悲劇的な死がみまう。著者はロシア女性の典型を描いて、ロシアの魂の救済を訴える。他に「クレチェトフカ駅の出来事」「公共のためには」の短篇2つを収録した。

ソルジェニツィン(1918〜)旧ソ連に生まれ、ロストフ大で物理数学を学んだ。対独戦に従軍したが、45年、不当な告発によって、8年間の服役生活を送った。その後、物理と数学の教師を務めながら「イワン・デニソビッチの一日」を書き、一挙に世界の注目をあびるようになった。しかし69年、作品が反ソ的とされて作家同盟を除名された。70年にノーベル文学賞を受賞したが、受賞式に出たら帰国させないという圧力で断念。74年には反体制的運動を理由に国外追放となり、スイスに住んだ。その後アメリカに渡り、94年にゴルバチョフによってようやく帰国を許された。他の代表作は「がん病棟」「煉獄の中で」「収容所群島」など。

立ち読みフロア

 あれからなお半年ばかりというもの、モスクワから百八十四キロの地点にさしかかると、どの列車もきまってまるで手さぐりで進むかのように、ぐっとスピードを落したものだ。乗客たちは窓ガラスに額を押しつけたり、デッキに出てみたりする――保線工事かな、それともダイヤの調整かな?
 いや、ちがう。踏切を通りすぎてしまうと、列車はふたたびスピードをあげ、乗客たちも席に戻ってしまうのだった。
 なぜこんなことになったのか、そのわけを知り、今なお記憶しているのは、機関士たちだけである。
 それに、この私と。



 一九五三年の夏、私は埃《ほこり》っぽい炎熱の砂漠のなかから、ただロシアへというほか、なんのあてもなく帰還の途につこうとしていた。ロシアのどんなところにも、私を待っていてくれる人も、呼んでくれる人もいなかった。なにしろ、私の帰還は十年あまりも遅れていたからである。私はただなんとなく中部ロシアへ行きたかった。そこでは炎熱もなく、森の木の葉の囁《ささや》きが聞えるにちがいない。もしロシアのいちばん奥深い懐《ふとこ》ろといった土地が、まだどこかに存在し、息づいているのなら、なんとかそこへもぐりこみ、そのなかへまぎれこんでしまいたいと願っていた。
 これより一年前、ウラル山脈のこちら側で私が雇ってもらえる仕事といったら、もっこ担《かつ》ぎぐらいのものだったろう。ちゃんとした工事現場では、私など電気工としてさえ、採用してはくれなかったにちがいない。だが、私は教師の仕事に心を惹《ひ》かれていた。事情通の人たちは、どうせ無駄足《むだあし》になるから、切符代がもったいない、と私に忠告してくれたものである。
 しかし、何かがもう動きはじめていたようであった。私が**州教育部の階段をのぼって、人事課はどこですかとたずねたとき、おどろいたことに、当の人事課はもうそこでは黒い革張《かわば》りのドアのかげではなく、まるで薬局のように、ガラス張りの仕切りのむこう側にあった。私はおずおずとその窓口に歩みよって、頭をさげてたずねた。
「ちょっと伺いますが、どこかなるべく鉄道から離れたところで、数学教師の口はありませんか? そこへ永住したいんですが」
 私の身分証明書は一字一句こまかく調べられ、人びとが部屋を出たり入ったりしたあげく、どこかへ電話がかけられた。彼らにとってもこれは珍しいことだったにちがいない。なにしろ、だれもが都会へ、それもできるだけ大きな都会へと希望する時世だったから。やがて、まったく唐突に、ヴィソーコエ・ポーリェ(高い野原)という名前の任地が私に与えられた。この名前を聞いただけで、私の心ははずんだ。
 その名前に嘘《うそ》はなかった。小さな谷や丘にかこまれた小高い台地であるヴィソーコエ・ポーリェは、すっぽりと森に包まれ、池や川をせきとめた堤などもあって、ここでなら、なんの悔いもなく一生を終えることができそうに思えた。私はそこの林の木株に長いことすわりこんで、考えたものだ――ほんとに毎日を朝晩の食事のことなど心配しなくてすんだなら。そして、この土地にとどまって、夜ごと、どこからもラジオの音の聞えない、全世界の沈黙のなかにあって、屋根にかかる木々のざわめきに耳を傾けていることができたなら、と。
 ところが、残念ながら、そこにはパンを焼く店がなかった。いや、食べ物を商う店ひとつなかった。村の人びとはみんな、近くの州の町から、食べ物を袋にかついで運んでくるのだった。
 私は人事課へ舞い戻ると、窓口で泣きついた。はじめは私と口もきいてくれようとしなかった。それでも、やがて人びとがまた部屋から部屋へ出たり入ったりしたあげく、電話がかけられ、ペン先がきしむと、ようやく私の書類に『トルフォプロドゥクト』(泥炭生産地)と判子《はんこ》をついてくれた。
 トルフォプロドゥクトだって? ああ、こんな言葉がロシア語でつくられようとは、さすがのツルゲーネフも夢にも思わなかったにちがいない!
 トルフォプロドゥクト駅は、古びて灰色になった木造の仮バラックだったが、こんないかめしい掲示板が吊《つる》してあった。〈必ず駅舎側から乗車のこと!〉その板切れには釘《くぎ》でひっかいて、こんなオチ《ヽヽ》がついていた。〈それも、切符を持たずに〉いや、切符売場の脇《わき》にも、同じような陰気なユーモアをこめて、〈切符売り切れ〉とナイフで永遠に刻みこまれていた。これらの但《ただ》し書《が》きの正確な意味を私はあとになって知ることができた。トルフォプロドゥクトへやってくるのは容易だが、そこを出ていくのはそう容易ではなかった。
 もっともこの土地にも、昔は人跡未踏の鬱蒼《うっそう》たる森林が生《お》い茂っており、革命後も無事であった。その後、森林は伐採されてしまった――泥炭採掘場や近辺のコルホーズの連中がやったのである。コルホーズ議長のシャシコフは、莫大《ばくだい》な面積の森林を根こそぎ伐採して、オデッサ州へ売り払い、たいへんな利益を得たという。
 泥炭の埋蔵されている湿地帯の間に、部落の家々はあちこちに散らばっていた――三十年代に建てられた画一的なバラックもあれば、家の正面を彫り模様で飾り、ガラス張りのベランダなどもある、五十年代の小住宅もあった。だが、このような小住宅でも、一歩なかへ入ってみれば、床から天井まで届く仕切壁というものには、ついぞお目にかかれなかった。そのため、この私も四方を本物の壁でかこまれた部屋を借りることはできなかった。
 部落の上には工場の煙突が煙を吐き出していた。部落のなかはいたるところに狭軌のレールが敷かれていて、これまた黒煙をもうもうと吐き出す小型機関車が、耳をつんざくような汽笛を鳴らしながら、褐色《かっしょく》の泥炭や、泥炭板や、豆炭を乗せた貨車を引きずっていた。いや、夜ともなれば、クラブの戸口から電蓄が鳴りだし、通りには酔っ払いが横行し、時にはナイフを掴《つか》んでの喧嘩《けんか》になることもあるにちがいないと見当がつくのだった。
 静かなロシアの片隅《かたすみ》を夢見た私なのに、こんなところへやってきてしまったのである。

……「マトリョーナの家」
巻頭

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