「犬を連れた奥さん」

チェーホフ/原卓也訳

ドットブック版 175KB/テキストファイル 117KB

400円

サハリン旅行後メリホヴォ村に落ち着いたチェーホフは、「六号室」にはじまる円熟期の多くの傑作を書いた。本巻に収めた「箱に入った男」「すぐり」「恋について」の連作を含む5編はこの時期の最後のもの(1898年、作者38歳)。肺を病んだ作者は翌年、クリミヤ半島のヤルタに転地、「可愛い女」「犬を連れた奥さん」の晩年の傑作はここで生まれた。

収録作品: 「箱に入った男」「すぐり」「恋について」「イオーヌイチ」「ある往診」「可愛い女」「犬を連れた奥さん」

立ち読みフロア

 海岸通りに新しい顔が現われたという噂《うわさ》だった。犬を連れた奥さんだという。すでに二週間ヤルタ暮らしをして、この土地に慣れたドミートリイ・ドミートリチ・グーロフも、やはり新しい顔に関心をもつようになってきた。ヴェルネの喫茶店に坐《すわ》っていると、ベレー帽をかぶった小柄なブロンドの、若い婦人が海岸通りを歩いて行くのが目に入った。婦人のあとから白いスピッツが走って行った。
 それからも彼は市の公園や広場で、日に何回ずつか、その婦人に出会った。彼女はいつもベレーをかぶり、白いスピッツを連れて、一人で散歩していた。彼女の素性《すじょう》はだれも知らなかったので、なんとなく、犬を連れた奥さんとよんでいた。
『あの女が夫も知合いもなしにここにいるのなら』グーロフは考えた。『近付きになるのもむだじゃないな』
 彼はまだ四十にもならないのに、もう十二歳の娘と、中学生の息子も二人いた。まだ大学二年だった時に早々と結婚させられたので、今では妻の方が五割がた年上に見えた。背が高く、眉《まゆ》が黒く、曲ったことがきらいな、おつにすました、しっかり者の女で、本人が言う通り、思索する女性だった。大の読書家で、手紙も新字法で書くし〔進歩的傾向であることを示す〕、夫をドミートリイとよばずに、ジミートリイとよぶような女だったが、彼はひそかに妻を浅はかで、了簡《りょうけん》の狭い、泥《どろ》くさい女とみなして、煙たがり、家にいるのを好まなかった。浮気をはじめたのはもう大分前からで、しじゅう女をこしらえ、おそらくそのためだろうが、女のことをほとんどいつも悪く言い、彼のいる席で女の話がでると、こう言うのだった。
「最低の人種だよ!」
 彼としては、苦い経験で十分にまなんだのだから、女をどうよぼうと構わぬ気でいたのだが、そのくせ『最低の人種』なしには二日と生きてゆかれぬに違いなかった。男ばかりの集まりだと退屈で、落ちつかず、口数も少なく、そっけないのだが、女たちの中に身をおくと、魚が水を得たような感じになり、語るべき話題や身の処し方を心得ていた。女たちを相手に沈黙していることさえ、彼にはたやすかった。彼の容姿や性格、彼の天性全体に、何か、女の心をひきつけ誘いよせる、一種捉《とら》えがたい魅力的なところがあった。彼もそれを承知していたし、彼自身もまた何かの力で女にひきよせられるのだった。
 場数《ばかず》を踏んだ経験が、それも実際には苦い経験がとうの昔に教えこんでくれたことであるが、およそ男女の関係というやつは、最初のうちこそこころよく生活をいろどり、楽しい軽い冒険のように思えるものの、まともな人間、それも特に腰の重い優柔不断なモスクワっ子にとっては、やがてそれが否応《いやおう》なしに、きわめて複雑な難問題に発展してゆき、しまいにはその状態がやりきれぬものになるのがオチである。それなのに、興味をそそる女に新しく出会うたびに、せっかくのその経験がいつしか記憶からすりぬけて、女をものにしたくなり、すべてがいと簡単な楽しいものに思えるのだった。
 そして、ある日の夕方近く、彼が公園で食事をしていると、ベレー帽の婦人が隣のテーブルに坐るため、ゆっくり近づいてきた。その表情や、歩き方、服装、髪型などが彼に、彼女がちゃんとした家の出で、人妻であり、ヤルタははじめての上、一人ぼっちで退屈していることを告げていた……この土地の風紀の乱れに関するさまざまな話には嘘《うそ》が多いので、彼はまともに取り合わなかったし、その種の話の大部分が、腕さえあれば自分も喜んで罪を作りたいと望んでいるような連中の創作であることも知っていた。しかし、わずか三歩ほど離れた隣のテーブルに婦人が坐った時、彼は、あっさり女をものにしたとか、山奥へ馬車で行ってきたなどというそうした話を思い起し、安直であとくされのない関係、名前も苗字《みょうじ》も知らぬ未知の女とのロマンスという誘惑的な考えが、だしぬけに彼をとりこにした。
 彼はスピッツをやさしく手招きし、犬が近くにくると、指を一本立てて脅《おど》した。スピッツは唸《うな》りだした。グーロフはまた脅した。

……「犬を連れた奥さん」巻頭より

購入手続きへ    


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***