「心」

ラフカディオ・ハーン/平井呈一訳

ドットブック版 250KB/テキストファイル 232KB

840円

《この一巻を構成している諸編は、日本の外面生活よりも、むしろ、内面生活を扱っている。そういうわけで、これらの諸編は、「心」という表題のもとに集められたわけである。》……この巻頭言どおり、日清戦争を契機に近代へとひた走る日本の姿に、危惧をおぼえ、ときに警告を発して、内面生活をもういちど振り返ることの大切さを説く、随想と論考16編。

ラフカディオ・ハーン(1850〜1904)小泉八雲。アイルランド出身の軍医であった父とギリシア人の母を持つ。アイルランド、フランス、イギリスで教育を受け、その後アメリカに渡ってジャーナリストに。数々の雑誌や自費出版の本などを手がけた後、紀行文を書くために来日。松江中学校の英語教師として教壇に。日本人女性、小泉節子と結婚し、46歳のときに帰化願いが受理されて「小泉八雲(こいずみやくも)」と改名した。日本的なるものの探求につとめ、英文による創作・エッセイによって、当時の日本を広く世界に紹介した。代表的なエッセイに「日本瞥見記」「東の国から」「日本…一つの試論」、創作に「怪談」「骨董」がある。

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 一艦をうしなうことなく、一戦にやぶるることなく、日本は、中国の勢力を打ちくじいて、あらたに朝鮮をおこし、領土をひろげて、ここに東洋の全政局面を一変させた。政策の上から見て、これは瞠目《どうもく》すべきこととおもわれるが、さらに心理的に見ると、なおいっそう瞠目すべきことである。なぜというのに、こんどの戦勝は、日本民族がいままで海外の諸国から、とうてい信じられえなかった能力――ひじょうに高度の能力を、しかも大がかりに発揮したことを物語っているからである。おおかたの心理学者は、わずか三十年かそこらのあいだのいわゆる「西洋文明の採用」が、日本人の頭脳に、従来欠けていた機能力を、なにひとつ加え得たというようなことはあるはずがない、ということを承知している。そんなもので、日本民族の心性や徳性が、とうてい急激に変革されるはずはない、ということを承知している。このような変革は、とても一代で成るものではない。移植された文明が侵蝕するその歩みというものは、いっそう緩慢《かんまん》遅々たるものなのであるから、それが恒久的な心理上の効果を招来するまでには、幾百年という星霜を閲《けみ》さなければならない。
 こういう点を照らしあわせてみると、日本という国は、世界諸国のうちでも、もっとも異数の国であるように見える。日本の「欧化」のあらゆる足跡をふりかえってみて、なによりもまず驚かれることは、この国民の頭脳が、よくこれだけの激動に耐えることができたということである。このような事実は、人類の歴史の上でも比類まれなことであるが、その真意ははたして何なのであろう? それはたんに既成の思想機関の一部を再編成したということにほかならない。それすらが、幾万という果敢な若い精神にとっては、致命的なものであったにちがいない。西洋文明の採用は、けっして一部の思慮なき人びとが想像したような、そんなたやすいわざではなかったのである。とにかく、こんにちでも語りぐさになっているほどの、そうとうの代価を払ってなされたこの国民精神の再調整が、従来この国民がつねに特異な技能を発揮してきた、ある特殊な方面にだけは、いちじるしい効果をあげている、ということは明白である。そういうしだいで、西洋の工業方面の発明の採用は、日本人の手練の方面には大いにはたらいたのである。――つまり、この国民が、年来、その固有の、しかもごく古風な手法によって多年熟達してきた職能方面においては、優秀な成績をあげてきた。そこには、なんら根本的な改革があったわけではない。――ただ、在来の技倆《ぎりょう》を、あたらしい、より大がかりなものに振りかえたというにすぎない。これとおなじことは、科学的な職能についてもいえる。たとえば、医学、外科手術(世界中に、日本ほどすぐれた外科医のいるところはない)、化学、顕微鏡学、――こういった方面の科学には、日本人の天性はうまれつき適応していて、この方面では、すでに世界に聞こえるほどの仕事をしている。戦争と国策、この方面にも、日本は驚くべき力量を示してきた。ことに、軍事力と政治力において、日本人は自国の歴史を通じて、このところ特異なその性格を発揮した。ところが、その反対に、国民的天性に適応しない方面では、なにひとつ目だった仕事がなされていない。たとえば、西洋音楽、西洋美術、西洋文学などの研究方面では、いたずらに時間のみを費して、しかもなんら得るところがなかったように見うけられる(*)。
* ある限定された意味では、なるほど、西欧の芸術は、日本の文学や演劇に多少の影響をあたえた。けれども、その影響の特質は、筆者のいう民族的な相違点をはっきりと証拠だてているのである。西洋の演劇は、いろいろ翻案されて、日本の舞台にかけられたし、また泰西の小説もずいぶんいろいろと日本の読者向きに改作された。しかし、原作の逐語的な詳訳は、ほとんどひとつも試みられていない。それは、原作の事件や、思想や、感情が、一般の読者や観客に耳遠いからである。だから、たゞ原作の筋だけを通して、原作にある情趣や事件は、全篇にわたって、ことごとく変えられてしまっている。たとえば「新マグダレン」が、村の男と結婚する日本の娘になっていたり、ユーゴー原作の「レ・ミゼラブル」が、日本の内乱の物語になって、アンジョルラが日本の書生にかえられている、といった類である。もっとも、二、三の例外はある。「ウェルテルの悲しみ」の逐語訳などは、その著しい例であろう。

 西洋の芸術は、われわれ西欧人の感情生活にこそ異常な感銘をあたえるけれども、日本人の心情には、いっこうに感興をおこさせないのである。けだし、人間一個人の感情というものは、世の識者も知るごとく、教育によってこれを改変することはできないものなのである。東洋の一民族の感性が、わずか三十年たらずの西洋思想との接触によって改変されるなどということは、想像するだに愚の至りであろう。知的生活にくらべて、それよりもさらに古く、かつ、深くしみこんでいる人間の感情生活が、ただ環境《ミリュー》のちょっとした変化などによって急激に変化しないことは、あたかもみがかれた鏡のおもてが、それにうつる物の映像によってかわらないのとおなじようなものである。日本が、奇蹟的なとでも言いたいくらいに、みごとに成しとげることができたものは、なにもこれは、自己改造などによって成しとげたものではないのであって、その意味で、日本がこんにち、三十年まえよりも、われわれ西欧人に感情的に接近したなどと想像するものがあったら、それは、科学的な事実というものは一切の議論を許さぬものだということを、知らないものの言うことである。

……「日本文化の真髄冒頭

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