チェーホフ短編集

「決闘」
「黒衣の僧」併載)

チェーホフ/小笠原豊樹訳

ドットブック版 201KB/テキストファイル 145KB

400円

チェーホフ作品の大きな転機となったサハリン旅行以後の最初の野心作『決闘』と、晩年の清朗な世界へ移行しつつあった頃の代表作『黒衣の僧』を収めたチェーホフ傑作集。
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 朝の八時だった。蒸し暑かった夜が明けて、士官や役人や観光客たちが海で一泳ぎし、それからコーヒーや紅茶を飲みに茶亭《パヴィリオン》へ立ち寄る時刻である。イワン・アンドレーイチ・ラエーフスキーという、年は二十七、八、痩《や》せぎすで、髪はブロンド、大蔵省の制帽をかぶり上履《うわばき》をはいた青年は、水浴びに来て浜で大勢の知合いと出逢《であ》ったが、そのなかには友人の軍医サモイレンコもいた。
 刈り上げた大きな頭、短い頸《くび》、赫《あか》ら顔、大きな鼻、もじゃもじゃの黒い眉《まゆ》、灰色の頬《ほお》ひげ、肥えた体《からだ》、たるんだ皮膚、おまけに声は軍隊風の嗄《しわが》れた低音《バス》というわけで、このサモイレンコは、ここへ来たばかりの人には嗄れ声の成上がり者という不愉快な印象を与えたが、初対面の日から二、三日も経《た》てば、この顔は妙に善良な、やさしい顔に見え、更には美しくさえ見え始めるのだった。不細工な外見や、いくらか粗暴な物腰とは裏腹に、この男は静かで、限りなく善良で、温和で、親切な人間なのである。町中の人と君僕の間柄だったこの男は、だれにでも金を貸し、だれでも診療してやり、縁談を取持ち、喧嘩《けんか》の仲裁をし、ピクニックのお膳立《ぜんだ》てをし、そのピクニックでは羊肉を串焼《くしや》きにしたり、非常に味のいいボラのスープをこしらえたりした。要するに年中だれかのために走りまわり、だれかの世話を焼き、いつも何かしら嬉《うれ》しがっていた。衆目の一致するところ、きわめて罪のない男で、欠点といえば二つしかなかった。その一つは、自分の善良さを恥じて、故意に厳《ぎび》しい目つきや見せかけの粗暴な物腰で本心を隠そうとすることであり、もう一つは、まだ五等官なのに衛生兵や一般の兵士から閣下と呼ばれるのを好むことだった。
「ねえ、アレクサンドル・ダヴィーディチ、一つ質問に答えてくれないか」と、サモイレンコと二人で肩の深さまで水に入ったとき、ラエーフスキーが言い出した。「これは仮定の話だけれども、きみが一人の女を愛して、その女と一緒になったとする。そして二年あまり同棲《どうせい》したあげく、よくあることだけれども、愛情がさめて、まるで見も知らぬ女と一緒にいるような気持になったとする。そういう場合、きみならどうする」
「簡単さ。おい、どこへでも勝手に出て行け――それだけ言やあいいじゃないか」
「言うは易《やす》しだ! その女に行きどころがなかったら? 身寄りのない孤独な女で、金もなく、働く能力もないとしたら……」
「なあに、それなら一ぺんに五百ルーブリも叩《たた》きつけてやるか、でなきゃ月に二十五ルーブリずつ払うか、それで文句はないだろう。簡単なもんだ」
「じゃ、きみにその五百ルーブリ乃至《ないし》は月に二十五ルーブリが払えると仮定しよう。ところが、今話しているこの女はインテリで、気位が高いんだ。まさか金を突きつけるわけにはいかないだろう。払うにしても、どういうかたちで払ったらいい?」
 サモイレンコは何か答えようとしたが、そのとき大きな波が二人に襲いかかり、それから岸に砕けて、ざわめきながら小石の間を引いて行った。二人は岸へ上がって、服を着始めた。
「そりゃあ、愛してない女と一緒に暮すのはいやなものだ」と、サモイレンコが長靴の砂をふるい出しながら言った。「でもね、ワーニャ、人情ということも考えなくちゃいけない。もしもぼくがそんな立場に立ったとしたら、愛情がさめた素振りも見せずに死ぬまで添いとげるだろうな」
 自分の言葉が急に恥ずかしくなったのだろう、サモイレンコはあわてて言い足した。
「しかし、ぼくに言わせりゃ、女なんか全然いないほうがいい。女なんか森の精にさらわれちまえ!」
 二人は服を着てから、茶亭《パヴィリオン》へ行った。この店はサモイレンコにはわが家同様で、彼専用の食器さえ備えつけてあった。毎朝、盆にのせられて出て来るのは、一杯のコーヒーと、背の高いカットグラスのコップにアイス・ウォーターが一杯、それにコニャックが一杯と成っていた。サモイレンコはまずコニャックを、それから熱いコーヒーを、それから氷の入った水を、順々に飲むのだが、これはたまらなく美味《うま》いとみえて、一通り飲んだあとは目が潤《うる》んでくるのだった。そして両手で頬《ほお》ひげを撫《な》で撫で、海を眺《なが》めながらサモイレンコは言うのである。
「絶景なるかな!」
 長い一夜を不愉快で無益な考えごとに空《むな》しく費やし、そのために眠りは妨げられ、夜の蒸し暑さや暗さまで一そう募るような思いだったラエーフスキーは、今も打ちのめされたような気分だった。泳いでも、コーヒーを飲んでも、気分はいっこうに良くならなかった。
「ところで、アレクサンドル・ダヴィーディチ、話の続きだけれども」と、ラエーフスキーは言った。「きみは友達だから、隠さず率直に話そう。ぼくとナジェージダ・フョードロヴナとの関係は実によくない……最悪の状態だ! つまらない打明け話になって申しわけないが、どうしても言わずにはいられないんだ」

……「決闘」冒頭より

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