「白痴(下)」

ドストエフスキー/中山省三郎訳

ドットブック版 420KB /テキストファイル 349KB

700円

ムィシキンをめぐってアグラーヤとナスターシャ、ナスターシャをめぐってムィシキンとラゴージンの愛の葛藤が主旋律となって物語は展開する。次々と語られる事件そのものが、様々なエピソードを満載して進む列車にも似て、やがてそれは悲劇の終着駅へと突進していく。……「しんじつ美しい人物を描こうとした人は常に失敗しています。なぜなら、それは量り知れぬほど大きな仕事だからです」ドストエフスキーのこの決意が結実した傑作。
立ち読みフロア
 十一月七日、金曜。コンカルノー〔フランスの西北端、ブルターニュ半島南岸にある漁港〕の町には人通りがたえていた。城壁の上にみえる旧市街の照明時計が十一時五分まえを指している。
 満潮時で、南西の烈風が吹きすさび、港内では船が舷側をぶっつけあっている。風は街路にも吹きこみ、ときどき、紙きれが、地面をすりながらものすごい速さで飛んでゆくのが見える。
 レギヨン海岸通りには一つの灯かげもない。どの家もみなしまっている。みんな眠っているのだ。広場と海岸通りとの角にある、アドミラル・ホテルの三つの窓だけ、まだ明かりがともっている。
 窓にはよろい戸はないが、緑の色ガラスがはまっているので、なかの人影はほとんど見分けがつかない。
 そうやって、カフェで夜をふかしている人びとを、そこから百メートル近くはなれている守衛所にじっとうずくまりながら、当直の税関吏はうらやましく思っていた。
 彼の正面には、構内の碇泊区に、午後になって退避してきた、一隻の沿岸航路船が入っている。甲板には人かげもない。滑車がきしみ、よく巻いてない三角帆が、風にはためいて鳴っている。寄せかえす波のとどろきが絶えまなく聞こえ、十一時を打とうとして、大時計がきしむような音をたてる。
 アドミラル・ホテルの扉がひらいた。一人の男があらわれ、半開きになった扉ごしに、まだなかに残っている連中と、ちょっとの間、そのまま話し続ける。烈風が吹きつけて外套(がいとう)の裾(すそ)をはためかし、山高帽を吹きとばしそうにするのを、彼はとっさにおさえ、かぶりなおしながら歩きだした。
 千鳥足で、すっかりご機嫌(きげん)になり、なにかくちずさんででもいるようすが、遠くからでも見てとれる。税関吏は、その姿を目で追いながら、彼が葉巻に火をつける気をおこしたときには、思わず顔をくずした。風に吹きもがれそうになる外套や、歩道の上をころがってゆく帽子と、酔っぱらった男とのあいだに、滑稽(こっけい)な闘争がはじまったのである。マッチはすでに十本ほど消えてしまった。
 山高帽の男は、石段の二つある玄関口を見つけ、そこに風をよけながら身をかがめた。
 一瞬、火が輝いてふるえ、すぐ消える。葉巻をくわえた男は、よろめいて玄関の扉のにぎりにすがりついた。
 税関吏の耳には、風とはちがう、別の物音が聞こえなかったのだろうか。その点になると彼にもはっきりしない。はじめ、その夜遊びの男が、平衡を失ない、よろよろと後じさりするのを見て税関吏は笑ったが、後じさりする男のそのひどい傾きかたは、体勢から言って考えられないほどのものであった。
 男は、溝に頭をつっこんだかっこうで歩道にのびた。税関吏は手をあたためようと、わき腹の上でぴしゃぴしゃたたきながら、不機嫌に船の三角帆をみつめた。帆のはためく音にいらいらさせられていたのだ。
 一分過ぎ、二分過ぎた。酔っぱらった男にまた目をやる。男は倒れたままうごかない。そのかわり、どこからともなく一匹の犬がそこに来ていて、しきりに男を嗅ぎまわっていた。
 ──そのときになってはじめて、何か起こったな、という感じがしたのです! 後に、取調べの段階に至ってから、税関吏はそう言ったのである。

……《一 宿なし犬》より


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