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「吠える犬」 E・S・ガードナー/小西宏訳 525円 |
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隣家の犬が吠えて困る、隣の主人を逮捕してほしいと、奇妙な用件を持った男がメイスンの事務所に姿をあらわした。男は謎めいた遺言書をメイスンに託した直後、隣家の夫人と駆け落ちし、姿をくらました。謎は謎を生み、メイスンはしだいに窮地に追い込まれる。メイスン、デラ、ドレイク三人の活躍を描くガードナー初期の代表作。 アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かして、法廷場面とハードボイルド・タッチで有名なペリイ・メイスン・シリーズを書き、一躍人気作家となった。 |
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| 立ち読みフロア | |
デラ・ストリートは奥の事務室のドアをあけ、それを手で支えながら、子供や重病人に話しかけるときに使う女性特有の声でいった。 「中へどうぞ、カートライトさん。メイスンさんがお会いになりますわ」 肩幅の広い、がっしりした感じで、ものに憑(つ)かれたような褐色(かっしょく)の目の、三十二歳ぐらいの男が事務室にはいって来て、ペリー・メイスンのしかつめらしい顔をじっと見つめた。 「ペリー・メイスンさんですね、弁護士の?」 メイスンはうなずいた。 「おかけなさい」 男はメイスンが身ぶりですすめた椅子(いす)にどっかり腰をおとすと、機械的にたばこの包みを取り出し、一本、口にくわえた。そして包みをポケットにもどしかけたが、気がついて、ペリー・メイスンにもたばこをすすめた。 差し出したたばこの包みを持つ手はふるえていた。弁護士の抜け目のない目が、そのふるえる手にちょっと注意を向けてから、頭をふった。 「いや、けっこうです。わたしは自分のたばこがきまっていますから」 男はうなずいて、あわてて包みをポケットにもどすとマッチをすった。そしてさりげなく前かがみになると、ひじを椅子の腕にのせて、たばこに火をつける手がふるえないようにした。 「秘書の話によると」メイスンは平静な口調でいった。「なんでも犬と遺言書の件で、ご用がおありとか」男はうなずいた。 「犬と遺言書です」とおうむ返しにいった。 「ではまず、遺言書の件からご相談しましょう。犬のことは、わたしはよく知りませんのでね」カートライトはうなずいた。その飢えたような目つきは、名医を見る重病人のようにメイスンを注視している。 ペリー・メイスンは、デスクの引き出しから黄いろい大判の洋紙綴(つづ)りをとり出すと、デスク・ペンをとりあげた。 「お名まえは?」 「アーサ・カートライト」 「年齢は?」 「三十二歳」 「住所は?」 「ミルパス・ドライブの四八九三番地」 「既婚ですか独身ですか?」 「そこまで立ち入る必要があるんですか?」 ペリー・メイスンは用紙の上のペンを宙にとめたまま、目をあげて、カートライトをじっと値ぶみするようにながめた。 「ありますとも」 カートライトは灰皿(はいざら)の上にたばこをもっていって、片手でたばこの先端の灰を落としたが、その手は、まるで《おこり》のようにふるえている。 「ぼくがつくろうとしているような遺言書なら、そんなことは、どうでもいいんじゃないかと思いますが」 「わたしは知らなくてはなりませんな」 「でも、ぼくの財産の遺贈(いぞう)の仕方を考えてみれば、そんなことはどうでもいいことですよ」 ペリー・メイスンは無言のままだったが、その完全な沈黙に気押されて、カートライトはまた口をひらいた。 「結婚しています」 「奥さんのお名まえは?」 「ポーラ・カートライト、二十七歳」 「いっしょにお住まいですか?」 「いいえ」 「じゃ、どこです?」 「知りません」 ペリー・メイスンは一瞬、鼻白んだ。その静かな辛抱強い目が、依頼人のやつれた顔をうかがった。それからなだめるように、 「よろしい、その問題はお預けにして、財産をあなたがどうなさりたいのか、それをさきにうかがいましょう。お子さんはおありですか?」 「ありません」 「財産を、どんなふうに残したいのです?」 「その問題にはいる前に、うかがっておきたいのですが」カートライトは早口にしゃべった。「遺言書というものは、その人間が、どんな死にかたをしても有効なものですか?」 メイスンは無言のまま、うなずいた。 「かりにその人間が絞首台や電気椅子で死んだらどうでしょう? かりに殺人罪で処刑されたら、その男の遺言書はどうなります?」 「どんな死にかたをしようと、無関係です。遺言書には影響ありません」 「遺言書には証人が何人必要です?」 「一定の状況下では二名の証人が必要であり、また、別の状況では、ひとりもいりません」 「と、おっしゃると?」 「つまりこういうことです。遺言書をタイプライターで打ち、あなたがサインする場合には、あなたの署名にたいして、ふたりの証人が必要です。しかし、遺言書の全文が日付も署名も含めて肉筆で書かれており、その用紙にはあなたの肉筆以外の文字も印刷文もなければ、署名する証人はひとりもいりません。そのような遺言書は、それだけで有効かつ拘束力を持っています」 アーサ・カートライトはため息をついた。ほっとしたようなため息だった。ふたたび口をひらいたとき、彼の声は前よりも静かで、せきこんだようすがなかった。 「なるほど、その点ははっきりしたような気がします」 「どなたに財産を残したいとお考えです?」 「クリントン・フォリー夫人にです。住所はミルパス・ドライブ四八八九番地」 ペリー・メイスンは眉(まゆ)をあげた。 「ご近所のかたで?」 「近所の人です」それにはあまり触れてもらいたくない、という口調だった。 「なるほど」といってからメイスンはさらに、「いいですか、カートライトさん。あなたはいま弁護士に向かって話しておいでだ。自分の弁護士に隠しごとをしてはだめです。真実をいってください。あなたの信頼を裏切るようなことはしませんよ」 「だって、ぼくは現に、なにもかも打ちあけているじゃありませんか?」カートライトは、たまりかねたようにいった。 ペリー・メイスンの目も声も、落ちついていた。 「わかりませんな、ま、わたしがいま申しあげたことをお忘れなく。その先をうかがいましょう。遺言書の件を」 「話はこれで全部です」 「とおっしゃると?」 「いま言ったとおりですよ。ぼくの財産は全部、クリントン・フォリー夫人にいくんです。なにからなにまでね」 ペリー・メイスンはペンをペン受けにもどすと、右手の指で、デスクの上をこつこつとたたいた。その目はゆだんなく依頼人を観察している。 「それでは、犬の件をうかがいましょう」 「その犬が吠(ほ)えるんです」 ペリー・メイスンはごもっとも、といわんばかりにうなずいた。 「たいてい夜分に吠えるんですが、日中、吠えることもあります。それを聞いてると気が変になるんです。ああ長鳴きされては、とてもがまんできません。ご承知のように、犬というやつは、近所に死人が出そうになると吠えるもんなんです」 「どこの犬です?」 「隣の家のです」 「すると、クリントン・フォリー夫人の家はあなたの家の片隣で、吠える犬の家は、反対側の隣だというわけですね?」 「いえ、吠える犬は、つまりクリントン・フォリー夫人の家にいるんです」 「わかりました。腹蔵なくお話しになったらどうです、カートライトさん」 カートライトはたばこの火をもみ消すと、立ちあがって、急いで窓ぎわへ行き、うつろな目で窓外を眺めた。それからふり向くと、弁護士のもとへもどって来た。 「ちょっと、遺言書の件で、もう一つ質問があります」 「どうぞ」 「万一、クリントン・フォリー夫人が、実際には、クリントン・フォリー夫人でなかったら?」 「とおっしゃると?」メイスンがきき返した。 「万一、夫人が妻として、クリントン・フォリーと同居はしているが、結婚はしていなかった場合どうでしょう?」 「それは影響ありません」メイスンはゆっくりといった。「あなたが、遺言書の中で彼女のことを《現在、ミルパス・ドライブ四八八九番地のクリントン・フォリーのもとに妻として同棲(どうせい)しているクリントン・フォリー夫人》》と書いておけばいいのです。つまり、遺言書は、自分の欲する人間に財産を残す権利があるということです。遺言書中の文言は、遺言者の意向を説明するものである限り、有効なんです。 たとえば、自分の財産を妻に残したいと思っていた主人公が死んだ。ところがふたりは合法的な結婚をしていなかった、という場合が多々あります。わが子に財産を残して死んでいったが、じつはその子は実の子ではないと判明した例もあります……」 「そんなことは、ぼくの知ったこっちゃありません」アーサ・カートライトはいら立った。「ぼくはただ、この特定の場合について質問しているんです。べつに影響はないんですね?」 「なんの影響もありません」 「じゃ、うかがいますが」不意にカートライトの目に、ずるそうな光が浮かんだ。「かりに《本物》のクリントン・フォリー夫人がいたら、どうでしょう。ぼくのいう意味は、つまりクリントン・フォリーが法的に結婚して、法的にまだ離婚していないとしてですね、ぼくが現在のフォリー夫人に遺産を残す場合のことですが?」 ペリー・メイスンの声には、いわれのない恐怖をなだめるような調子があった。 「すでに鋭明したように、遺言者の意向が支配します。もしあなたが《現在》その住所に、クリントン・フォリーの妻として同居中の婦人に財産を残せば、ただそれだけですむことです。しかし、クリントン・フォリー氏は存命なんでしょうな?」 「むろん、ぴんぴんしてますよ。ぼくの隣人です」 「なるほど」メイスンはゆだんなくいうと、ことさら、さりげない口調で、「それで、クリントン・フォリー氏は、自分の妻にあなたが遺産を残そうとしていることを知っているんでしょうな?」 「とんでもない」カートライトは急に激昂(げっこう)した。「夢にも知りませんよ。知られちゃいかんでしょう、え?」 「そうですよ。わたしはただ知ってるかな、と思っただけです」 「やつは知りませんよ、将来だって、知ることはないでしょう」 「よろしい、この問題は、はっきりしました。で、犬の件はどうなんです?」 「なんとか手を打つ必要があります」 「どんな手を打ちたいのです?」 「フォリーを逮捕してもらいたいのです」 「どんな理由で?」 「ぼくの頭をむらむらさせている、という理由で。あんな犬を飼うことは許されません。あれは、ぼくに対するいやがらせのために慎重に立てた計画の一部です。吠える犬のことを、ぼくがどう感じているか、やつは百も承知なんです。あの犬を手に入れて、吠えかたをしこんだのです。いままで、めったに吠える犬じゃなかったんですが、この一晩か二晩のうちに急に吠えはじめたんです。ぼくと自分の妻をいらいらさせるために、そんなまねをしてるんです。細君は病気で寝ているのに、犬が吠える。それは近所から死人が出ることを意味します」 カートライトは目をぎらつかせ、両手を大きくふって意味もなく空(くう)をつかんでは、早口にまくしたてた。 メイスンは口をすぼめた。 「どうもそれでは、ご依頼にお答えすることはできかねるようですな、カートライトさん」メイスンは、ゆっくりといった。「わたしはさしあたって、とくに忙しいからだです。たったいま、殺人事件の法廷からもどって来たところで、それに……」 「わかってます、わかってます。ぼくのことを頭のおかしなやつだとお考えなんでしょう。こんなことは、ほんのつまらんことだとね。ところが、そうじゃないんです。これはあなたが今までに扱ったなかでも、いちばん大きな仕事ですよ。ぼくはあなたが、あの殺人事件を弁護してたからこそ、ここまで出向いて来たんです。ぼくは法廷で傍聴していたんです。あなたこそ、ほんとうの弁護士だ。あの事件では、そもそもの初めから、あなたは地方検事を一歩出しぬいていた。あの事件のことなら、ぼくは、なんでも知ってますよ」 ペリー・メイスンは、ゆっくりと微笑した。 「どうも恐縮ですな、カートライトさん。しかし、わたしの仕事が大部分、裁判の弁護であることは、おわかりいただけるでしょう。わたしは刑事裁判専門です。遺言書の作成は、正しくは、わたしの領分ではないし、それにこの吠える犬の一件は弁護士なしでも、片のつきそうなことのように思えますが……」 「いや、できません。それはあなたがフォリーをご存じないからです、相手がどんなタイプの男かご存じないんだ。おそらく、こんな事件を引き受けたところで、引き合うだけの報酬ももらえんだろうと、お考えでしょうが、ぼくはお払いしますよ。たっぷりお払いするつもりです」 カートライトはポケットに手を入れると、札束でふくらんだ財布(さいふ)をとり出し、ふるえる指先で、三枚の紙幣をぬき出した。そして弁護士にわたそうとしたが、デスクの途中で紙幣が指から抜けて、吸い取り紙の上に落ちてしまった。 「ここに三百ドルあります。前金です。この仕事が終わったら、もっと――もっと、もっとさしあげます。まだ銀行へ行って現金を引き出していませんが、これからそうするつもりです。銀行の信託金庫には、現金をうなるほど預けてありますから」 ペリー・メイスンは、しばらくその金に手を触れなかった。そのたくましい力強い指先が、音を立てずに机の上をたたいている。 「カートライトさん」ペリー・メイスンはゆっくりといった。「かりにわたしがこの件で、あなたの弁護士として行動するとなれば、いちばんあなたの利益になると考えたことをするつもりですが、その点はおわかりでしょうな?」 「むろん、わかっています。それこそ、ぼくの望むところです」 「たとえばどんなことであろうとも、あなたのためによかれと思ったら、わたしはそのとおりやりますよ」メイスンは警告した。 「けっこうですとも。あなたがこの事件を引き受けてくださるんでしたら」 ペリー・メイスンは三枚の百ドル紙幣をとりあげると、折りたたんでポケットにしまった。 「それではお引き受けしましょう。で、あなたはフォリー氏を逮捕させたいというお話でしたね?」 「そうです」 「よろしい、それはべつにむずかしくはありません。あなたはただ宣誓の上、告訴すれば、治安判事は逮捕状を発行してくれます。それに関連して、わたしを雇いたいという理由はなんですか? 特別告訴人として行動してもらいたいのですか?」 「あなたは、クリントン・フォリーをご存じない」アーサ・カートライトは頑固(がんこ)に同じことをくり返した。「やつは、ぼくに仕返しをしますよ。ぼくを誣告(ぶこく)罪で訴えるでしょう。おそらくやつは、ぼくをわなにかけるため、犬を吠えるように訓練したんです」 「犬の種類は?」 「大型の警察犬です」 ペリー・メイスンは目を落として、デスクをたたいている指先をしばらく見つめていたが、やがて顔をあげ、カートライトに向かって、安心しなさいというように微笑を見せた。 「法律的には、依頼人が弁護士に誠意を持って相談し、すべての事実を打ちあけ、弁護士の忠告にしたがって行動すれば、誣告罪なんか、かならず論破(ろんぱ)できるものです。わたしはだれが誣告の訴訟を起こそうと、歯が立たないような立場に、あなたをおいてあげますよ。これから地方検事局の検事補のところにお連れしましょう。そうした問題を扱っている男です。その検事補にすっかり打ちあけてください――つまり、犬のことですがね。遺言書の件に触れる必要はありません。もし彼が逮捕状を発行すべきだと判断したら、万事はそれですみます。しかし念のため申しあげておきますが、検事補には包み隠さずに話すんですよ。つまり、すべての事実を彼に打ちあけるんです。正直に、なにからなにまで、打ちあけるんです。そうすれば、たとえフォリーがどんな訴訟を起こそうと、あなたは完全に身を守ることができます」 カートライトは、ほっとため息をついた。 ……冒頭より |
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