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「帽子蒐集狂事件」 ディクスン・カー/宇野利泰訳 630円 |
| 「不可解な謎とその合理的な解決」を信条としたディクスン・カーの本格ミステリーの代表作のひとつ。舞台は陰惨な伝説にみちみちたロンドン塔、その中の、そのむかし反逆者が夜、テムズ川から船に乗せられてこの塔に収容されるときに使われた逆賊門(トレイターズ・ゲート)で、殺人は起こる。濃霧につつまれたなか、昼なお暗いその構内に、シルクハット!をかぶり、中世の鉄矢で背中を射られた死体が発見されるのだ。
ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住み、1930年代に「密室トリック」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。代表作「火刑法廷」「皇帝のかぎ煙草入れ」「三つの棺」など。「カーこそは謎解きの妙味を骨の髄まで心得ている作家である。謎はとうてい解決不可能だと読者に信じこませれば、それだけあざやかに解決したときの感銘は深い。それを十分承知しているからこそ、彼は思いきり大胆な謎を提出するのである」(中島河太郎) |
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| 立ち読みフロア | |
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いつものフェル博士の事件とおなじように、この物語もまた、酒杯のあいだで幕が落された。 ロンドン塔は逆賊門(トレイターズ・ゲート)の石段の下で、男が一人、死骸となって発見される……着ているのはゴルフ服だが、頭の上には、まるで服装とそぐわぬ帽子が載っている……その怪奇な謎を追及するのがこの物語の骨子であるが、解決をみるまでのしばらくの間、ロンドン中はこのために、帽子の呪いに取り憑《つ》かれたかと思われたほどの騒ぎであった。 どう考えてみたにしても、帽子そのものが呪いの種になる理屈はない。帽子店の飾り窓をのぞきこんだところで、誰も危険に襲われるものではない。かりに諸君が、街灯の上に巡査のヘルメット帽が載っかっているのを見つけたところで、あるいはまたトラファルガー広場《スクエア》のライオン像の頭に、銀鼠色のシルクハットがかぶせてあるのを見たとしても、せいぜい酔っ払いがわる気のないいたずらをやったぐらいにしか考えまい。……したがってランポウル青年が、帽子魔騒ぎを新聞で読んだとき、一笑に付そうとしたのも当然だといえよう。 しかし、ハドリイ警部だけは、そう簡単には考えていなかった。 ハドリイ警部とランポウル青年は、ピカデリイ広場《サーカス》の中心に近い、スコットという名の料理店で、フェル博士の登場を待っていた。グレイト・ウィンドミル・ストリートに沿って、社交クラブに似た雰囲気を漂わしたレストランだった。ここはその酒場《バー》であるが、部屋のまわりは茶色鏡板に囲まれて、赤革の肱かけ椅子が豪奢な趣きをみせている。カウンターの奥には、真鍮のたが《ヽヽ》を嵌《は》めた酒樽が並び、マントルピースの上には精巧な船の模型が飾ってあった。 その片隅で、ランポウル青年はビールのコップを傾けながら、警部の様子を観察していた。彼としては、ロンドン警視庁の主任警部ともあろうものが、なぜこんな馬鹿騒ぎに頭を悩ますのか、それがなんとも、不思議に思えてならぬのだった。実際、今朝アメリカから到着したばかりの彼には、酔狂がいささか度を過ごしたとしか考えられぬのである。 彼はいった。 「僕はときどき考えてみるんですが、フェル博士という方は、一体、どんな地位にあるんでしょう? 外部の者には判りかねますね。難事件というと、何によらず引き受けさせられているようですが」 相手は笑ってうなずいた。 ランポウルが考えるまでもなく、この警視庁の主任警部は、話しあってさえいれば、誰にだって間違いなく好感を持たれる男である。風采はいわゆる男らしいタイプというか、中肉中背だが、がっしりと引き締まった印象を与える。絶えず身装《みなり》に注意を払って、軍隊風の口髭と鋼鉄色の頭髪には、いつも手入れを忘れない。そして、初対面の相手でも、すぐに気のつく彼の特徴は、ものに動じないその沈着ぶりである。何くわぬ顔をしながら、するどく相手を観察していると思われる。動作はおよそ軽率とは縁遠い。その眸《ひとみ》の色を見ても、慎重な彼の性格が推察される。声だって、めったに荒立てることはないのである。 「ランポウルさん。あなたは博士と、相当長いおつきあいなんですか?」ハドリイ警部は、コップの泡を眺めながら訊いた。 「なあに、やっと去年の七月からなんです」 アメリカ人はそう答えながら、案外短期間なのに、われながら驚いた様子である。 「それにしては、ずいぶん長い交際のように思えるんです。でも、考えてみれば無理もありません。僕は僕の妻と、あのひとのお陰で知りあいになったんですからね」 ハドリイ警部はうなずいて、 「そうでしたな。あれはたしか、スターバース事件のときでしたね。博士がリンカーンシャーから電報を打って寄こしましたので、警官を派遣した記憶がありますよ」 八カ月あまり経っているのだが、ランポウルの眼の前には、あのときの怖ろしい場面のかずかずが、昨日の出来事のように浮かんでいた。とりわけ、夕闇が迫って来た田舎駅の構内で、マーティン・スターバースの殺害犯人の肩に、フェル博士の手がおかれたときの光景が、いまもなおまざまざと思いだされてくるのだった。それ以来、すべては平和のうちに、ランポウルは新妻ドロシイとともに、幸福な日を送っていた。そして、この三月の霧深い日に、彼はその後はじめて、ロンドンを訪れたのであった。 警部はもう一度微笑んで、しずかな声で言った。 「それにあなたは、たしかあの事件がきっかけで、奥さんと結婚なさったのでしたね。どうです、驚きましたか。私はこれでなかなか事情通でしょう……なあに、実はみんな、フェル博士から聞いているのです。それにしてもあのときの博士は、素晴らしい手柄を立てたものですな」 そういいさして、ハドリイは急に付け加えた。「しかし、こんどの場合は……」 「おなじように成功するかどうか、疑問だというのですか?」 相手は、はぐらかすように表情を変えて、 「そう簡単に結論は出せませんが、どうやらあなたも、犯罪のにおいだけは嗅ぎあてられたようですな」 「博士の手紙で、あなたとここで会見すると聞いていますんでね」 「その予感は」と、ハドリイ警部はいった。「当っていると思われます。私もやはり、そんな気がしているのです」 彼は、折りたたんでポケットに入れた新聞に、そっと手を触れながら言葉をつづけた。 「しかし、これはちょっと、私が取り扱う範囲とはちがうように思われます。まず、どう見ても、フェル博士の領分でしょうな。ウイリアム卿からは、個人的に助力を求めて来ていますが、警視庁が乗りだす仕事とも考えられんのです。といって、卿の依頼を放っておくわけにもいきませんし……」 ランポウル青年には、相手の言葉の意味がはっきり掴めなかった。警部は思案しながら、絶えずポケットの新聞に手をやっているのは、彼もやはり、何か迷っている証拠であろう。 彼はまた、不意に言った。 「ランポウルさん。あなた、ウイリアム・ビットン卿を御存じですか?」 「あの有名な蒐集家の?」 「やはり御存じだったのですな。フェル博士の話では、あなたもおなじ御専門のようですね。卿は古書の蒐集家なんです。もっとも私は、卿が政界で活躍しておられる頃から存じあげているんですが……」警部は時計をチラッと見て、「約束は二時ですから、もうフェル博士の出現される頃でしょう。リンカーンからの列車は、キングズ・クロス駅に一時三十分に到着する予定です」 そのとたんに、雷鳴のような大声が落下した。 「やあ! しばらくだったな」 声の主は、まだ部屋の外にいた。街路から下りてくる階段を、肥った体でいっぱいに塞いで、ステッキをふりまわしながら叫んでいる。客のたてこまない時間なので、部屋中に響き渡るような声だった。白い上着のバーテンダーは、びっくりしてふりかえった。ほかに客といっては、向うの隅に会社員らしいのが二人、先ほどから低い声で商談をしているだけだったが、これもむろん驚いて目をみはった。仰々しいくらいに派手な、ギディオン・フェル博士の登場だった。 ……「一 弁護士の鬘《かつら》をかぶった馬」より |
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