「鼻・幌馬車」

ゴーゴリ作/ 横田瑞穂訳

ドットブック 207KB/テキストファイル 167KB

500円

ゴーゴリの中編小説集。プーシキンが絶賛した「ネフスキー大通り」、鋭い諷刺作品「鼻」、チェーホフが高い評価をくだした「幌馬車」ほか、異色作「狂人日記」、ローマ讃美の詩編ともいえる「ローマ」の5編を収めた。

ニコライ・ゴーゴリ(1809〜52) ウクライナの小地主の息子。小官吏となり、かたわら民俗的テーマの小品を書いてプーシキンに認められ、作家を志す。コサックを描いた歴史小説「タラス・ブーリバ」のあとは、小官吏、小市民を描いた「外套」「狂人日記」などを著してリアリズム文学の父となった。

立ち読みフロア
 三月二十五日のこと、ペテルブルグで非常に奇怪な事件が発生した。ヴォズネセンスキイ大通りに住んでいる理髪師のイワン・ヤーコヴレヴィチという男(彼の姓はなくなっていて、その看板にも、――片方の頬に石鹸の泡をなすりつけた紳士の顔が描かれ、『吸玉(すいだま)療法もいたします』という字が書いてあるだけで――そのほかにはなにひとつ記されていない)、その理髪師のイワン・ヤーコヴレヴィチが、朝、かなりはやく目を覚ますと、焼きたてのパンの匂いがぷーんと鼻をついた。ベッドに寝たまま、少し身を起こして様子をうかがってみると、もうかなりの年輩の女で、コーヒーをたしなむことがたいへんに好きな彼の細君が、ちょうど炉から焼きたてのパンを取りだしているところだった。
「プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ、今日は、おれはコーヒーを飲まないことにするぜ」と、イワン・ヤーコヴレヴィチは言った、「そのかわりにな、ほやほやのパンに玉葱(たまねぎ)をそえて食べたいんだよ」
 じつは、イワン・ヤーコヴレヴィチは、その両方ともほしかったのであるが、ふたつの品をいちどに要求するなどということは、とてもかなわぬ相談であることを彼は承知していたのだ、というのはつまり、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナは、そういうわがままをひどくきらっていたからである。『まあ、このお馬鹿さんには、パンを食べさしとけばいいさ、あたしだってそのほうが都合がいい』と、細君はひそかに心のうちで思った、『そうしてくれればコーヒーが一杯分たすかるというものさ』そこで、パンをひとつ食卓の上へほうりだした。
 イワン・ヤーコヴレヴィチは、礼儀作法上シャツの上に燕尾服を着こむと、食卓に腰をおろした。さて玉葱をふたつ取りよせ、塩をふりかけ、手にナイフを取り、もっともらしい顔つきをして、パンを切りにかかった。まずパンをふたつに切ったところで、彼はそのなかのところへちらと目をやった、と、驚いたことに、なにか白っぽいようなものが、ふと目にとまったのである。イワン・ヤーコヴレヴィチは、そっとナイフでほじってみた、そして指でつついてみた。『堅いものらしいな!』と、彼は独りごちた、『いったい、どうしたんだろう?』
 彼は指をさし入れて取りだしてみた――鼻である!……イワン・ヤーコヴレヴィチはあきれて、両手をだらりと垂れてしまった。目をこすって、さすってみた。鼻である、たしかに鼻にまちがいない! しかも、それはなんだかだれかの、見覚えのある鼻であるような気がした。イワン・ヤーコヴレヴィチの顔には、みるみるうちに恐怖の色がさっと射してきた。けれども、その恐怖も彼の細君をとらえた憤怒には抗すべくもなかった。
「人でなし、いったいおまえさん、この鼻をどこから削(そ)ぎとってきたのさ?」と、彼女はもうかーっとなって、どなりたてはじめた。「いかさま野郎! のんだくれ! このあたしが警察にとどけてやるからね。なんていうひったくり野郎なんだろう! あたしゃもう三人の人からちゃんと聞いてるんだよ、ひげを剃(あた)るときおまえさんは、人の鼻をつまんでいやというほどぎゅーっと引っぱるって話じゃないか」
 だが、イワン・ヤーコヴレヴィチは生きた心地もなかった。彼はこの鼻が余人ならぬかの八等官コワリョーフのものであることを知ったからである、彼は、その八等官の顔を毎週水曜日と日曜日とに剃(あた)ることにしていたのだ。
「まあ待ってくれ、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ! いま、ぼろっきれへつつんで隅っこのほうへ置いとくことにする、しばらくそうしておいて、あとで持ちだすことにする」
「そんな口上は聞きたくもない! あたしの部屋へ削がれた鼻なんぞ置かしてたまるかね! ……この、できそこないめ! 革砥(かわと)で剃刀(かみそり)をぺたぺたやるだけが能じゃないよ、自分のなすべきことをさっさと片づけることもできないのかねえ、なんてだらしないんだろう! あたしがおまえさんのかわりに警察で申し開きをするとでも思っているのかい?……なんて能なしなんだろう、この木偶(でく)の坊! そんなもの、さっさと捨てて! 捨てて! どこへでも好きなところへ持っていくがいいさ! あたしににおい(ヽヽヽ)でも嗅(か)がしたら承知しないからね!」
 イワン・ヤーコヴレヴィチは、まるで叩きのめされた者のようになって立っていた。彼は考えに考えてみた――だが、どう考えてみたらよいのかわからなかった。
『どうしてこんなことになったのかなあ、さっぱり見当がつかん』と、やがて彼は、耳のうしろをかいて、言ったものである。『昨日帰ってきたとき、酔っぱらっていたのか、どうか、いまとなっちゃあ、それさえもはっきりとは言えねえ。だが、どう見たって、こんなことってあるもんじゃねえ、だってさ、パンはちゃんと焼けてる、ところが鼻のほうはちっとも焼けていねえんだからなあ。まるで狐につままれたようなぐあいだ!』
 イワン・ヤーコヴレヴィチは、黙りこんだ。警官たちが鼻を捜しにやってきて自分が罪を背負いこむことになるかもしれぬと考えると、もうまったく気も転倒する思いであった。彼の目にはもう、美しく銀で縫い取りされた真赤な襟や、サーベルがちらちらしていた……彼は体じゅうぶるぶる震えていた。やがて彼は自分の下着や長靴などを取りだして、それらの薄汚いぼろを身にまといつけると、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナの重苦しい説教を背に浴びながら、鼻をぼろきれにつつんで、表通りへ出ていった。
 彼はそれをどこか門の土台石のあいだかなにかへ、そっと突っこんでしまうか、それともさりげない顔をして落としたまま、すっと横町へ曲がってしまうかしたかったのである。ところが、あいにくなことに、ある顔見知りの男にばったり出くわしたりして、その男からすかさず『どこへお出かけかね?』とか、『こんなにはやく、いったいだれの顔を剃(あた)りに行くんだね』とか、きかれたりする羽目になったものだから、イワン・ヤーコヴレヴィチは、とうとうその機を逸してしまった。そのつぎの場合には、彼はもう完全に落とすには落としてしまったのだが、交番の巡査が遠くのほうから警棒で指し示して、『おい、おい、なにか落としたぞ、拾ってゆかんか!』と、教えてくれたものだから、イワン・ヤーコヴレヴィチは、また鼻を拾いあげて、それをポケットへ仕舞いこまねばならなかった。彼はもうがっかりしてしまった、しかも、そのうちに商館や店舗が店を開きはじめるにつれて、往来の人々の数はだんだんに増してきた。
 彼はイサーキエフスキイ橋へ行くことに肚(はら)を決めた。そこへ行けば、なんとかして鼻をネワ河のなかへほうりこめるかもしれない、と思ったからである……

……「鼻」冒頭より


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