「怒りのぶどう」(上・下)

スタインベック作/谷口陸男訳

(上)ドットブック版 291KB/テキストファイル 271KB
(下)ドットブック版 277KB/テキストファイル 257KB

各735円

砂嵐の猛威と旱魃、大資本の進出に父祖の土地を追われたオクラホマの小作農ジョード一家は、一片の宣伝ビラの文句に誘われて「緑なす、たわわに果実の実る、職のある」カリフォルニアを目指して長い旅路につく。売れるだけの家財を売り払い、二頭の仔豚を屠って塩漬けとし、中古おんぼろ車を急造トラックに仕立て、一族12人に元説教師をくわえた一行13人は国道66号線をひたすら走る。だが、国道は同じように西へ移住しようとするトラックでいっぱいだった。災厄がつぎつぎと降りかかる。次男トムとおっかあは知恵をしぼり、気力をふりしぼって一家の苦難を支える……カリフォルニアは確かに「緑したたる」場所であった。だが、そこは夢にみた楽園ではなかった。俗語や卑語を駆使し、全体状況をさしはさむテンポのよい構成で、力強くうたいあげた社会小説、家族小説。ピューリッツァー賞を受けた、スタインベックの代表作のこの作品は、20世紀アメリカ文学の金字塔 である。

ジョン・スタインベック(1902〜68)カリフォルニアに生まれ、終生そこに留まって社会性のある作品と、牧歌的な叙情的作品を書き続けた。代表作「怒りのぶどう」「赤い小馬」「エデンの東」。

立ち読みフロア
「トム、カリフォルニアへいけば、何もかもうまくいくと思うんだがね」
 彼はふり返って母親を見た。「そうでねえって、思わせる何かがあんのかい?」
「そりゃ――何もないよ。ちいと、よすぎるように見えるでな。男どもが配ってったチラシを見たけどね。仕事がたくさんあって、手間賃が高くてなんて、いっぱい書いてあったよ。それに、新聞で、あっちじゃ、ぶどうとオレンジと桃をもぐ人にきてもらいたがってるって記事を読んだよ。そりゃいい仕事だとも、トム、桃もぎってのは、ね。たとえ、食わしてくれなくっても、ときどき、ちっちゃいみすぼらしいのをこっそり食べることぐらいできるだろうしな。それに、木の下ってのは、木蔭で働くってのは、いいもんだよ。わたしゃね、そんなにいいことってのがこわいんだよ。信じられないのさ。そんなことには何かよくないものがあるような気がして、こわいんだよ」
 トムが言った、「なんじの信を鳥の高きにあげることなかれ、さすれば、地の虫とともにはうこともなからん」
「そのとおりだよ。それは聖書の言葉じゃなかったかい?」
「そうだろうな」とトムが言った。「おれはどうも、『バーバラ・ワースの勝利』(アメリカの大衆小説)って名前の本を読んでこの方、聖書の文句をそのまま覚えられないんだ」
 おふくろは軽くクスクスと笑った、そして衣類をバケツに入れたり出したりしてすすいだ。そして、作業衣とシャツを絞った、すると前腕の筋肉が太い筋になって浮いて出た。
「おまえの父ちゃんの父ちゃんときたら、いつも聖書の言葉を引いてらしたもんだった。おまけに、すっかりごたまぜにして覚えていらしてね。『マイルズ博士のこよみ』(薬屋のPR用こよみ)とまぜこぜになっちまってたよ。あのこよみに書いてあるのを一言のこらず大きい声に出して読んでいらしたもんだった――それが眠られんとか背なかの悪いとかいう人から来た手紙なんだよ。そして、後になると、それをみんなに説教してきかせて、こう言われたもんだ、『こりゃ聖書からのたとえ話じゃぞ』って。父ちゃんとジョン伯父はそのことで、大笑いして、じいさまを困らせたもんだよ」彼女は絞った衣類を薪のようにテーブルの上に積み重ねた。「これから行こうってとこは二千マイルもあるって言うけど、そりゃ、どれぐらい遠いんだろうかの、トム? あたしゃ、地図で見たら、絵はがきにあるみたいなでっかい山があって、あたしたち、その山を抜けていくんだね。そんな遠くまでいくにゃ、どれくらいかかると思うかい、トミー?」
「わからんよ」と彼は言った。「二週間、ひょっとすると十日間、運がよけりゃね。なあ、おっかあ、心配するのは止めにしな。それより、刑務所にいたらどうなるか少し話してやるよ。いつ外へ出られるのかなんて考えていられるもんじゃねえ。そんなことを気にしていたら頭が変になっちまわあ。まずその日のことだけを考え、それから次の日のことだけ、次に土曜日の野球の試合のことだけを考えるってえやり方をしなきゃならねえんだ。必要な手順はそれだけさ。古株の連中はかならずそうする。独房の壁に頭をぶっつけたりするのはきまって新入りの若えやつなんだ。いつまでつづくんだろうかと思っちまうんだな。おっかあもそんなふうに考えたらいいんじゃねえか? ただ、その日その日のことだけを考えるんだな」
「そいつはいいやり方だね」と彼女は言った、そして、バケツにストーブのお湯をいっぱいに入れ、汚れた衣類を突っこんで、それを石鹸水のなかへたたきこみはじめた。「そうだね、そりゃいい方法だね。でもあたしは、もしかしてカリフォルニアへ行ったら、どんなにすばらしいことだろうって考えるのが好きなんだよ。寒さ知らずだって言うじゃないか。それにどこにでも果物があって、人々はとてもいいとこに住み、オレンジの木立ちの間には小さい白い家があったりしてね。どうかしら――いや、もし、あたしたちが仕事にありつき働けたらの話なんだけど――きっと、あたしたちもそんな小さい白い家を一つ手に入れることができるだろうかしら。そしたら、子供たちは外へ出て、すぐに木からオレンジをもぎ取る。子供たちはもうがまんができなくなって、大声あげてわめき出すことだろうね」
 トムは彼女の仕事ぶりを見まもっていた、彼の目には微笑が浮かんでいる。「おっかあはそのことを考えてるだけで、結構、元気になっちまうんだな。おれはカリフォルニアから来た男を知ってるんだ。そいつあ、おれたちみてえな話し方をしねえんだ。そいつの話しっぷりを聞くだけで、どっか遠い遠いとこからやって来たってえことがすぐわかってね。でも、そいつの話では、あっちも、いまんとこ、仕事を探してるもんが多すぎるんだとさ。それによ、果物もぎの連中はきたならしい古ぼけたキャンプに暮らしていて、食い物もろくすっぽありゃしねえんだとか言ってたぜ。賃銀は安いし、だいいち、その賃銀がなかなかもらえねえって話だったな」
 影が彼女の顔をさっとよぎった。「まさか、そんなことがあるもんか」彼女は言った。「父ちゃんが黄色い紙のチラシをもらったけど、仕事をする人が入用だって書いてあったよ。仕事がたくさんあるんでなきゃ、わざわざそんな面倒なことをするもんかね。あのチラシを配るのだって、大へんな金がかかるんだから。何のためにうそをつきたがるんだい、うそつくのに金までかけてさ?」
 トムはかぶりを振った。「おれは知らんよ、おっかあ。どうしてそんなことやるのか、考えるのは、すこしばかりむつかしいよ」彼は外の赤い土に照り輝いている陽光に目をやった。

……第十章より


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