「春の嵐」

ヘッセ/石丸静雄訳

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クーンは少年時代、そりの事故を機に失恋して不具となったときから、音楽家として立つことを志す。そのなかで永遠の女性ゲルトルートを見出したように思ったが…それはあっけなく、友人で情熱家の歌手ムートンの手に奪われてしまう。心傷つきながらも、クーンは諦観の境地にいたる。
立ち読みフロア
 私の一生を外側からながめてみると、格別に幸福なようには見えない。だが、いろいろ迷いはしたけれど、不幸だったとはなおさらいえない。要するに、幸不幸をとやかく言うのは、まったく愚《おろ》かしいことである。なぜなら、私の一生のうちで、どんなに不幸のどん底にあった日々でも、それを捨ててしまうことは、たのしかった日々のすべてを捨てるよりもつらく思われるのだから。
 人間生活の中でだいじなことは、どうにも避《さ》けようのない運命を自覚をもって受けいれ、よいことも悪いことも心ゆくまで味わいつくし、外面的な運命とともに、内面的な、もっと固有の、偶然《ぐうぜん》とはいえない運命にうち勝つことだとすれば、私の一生はみじめでもなかったし悪くもなかった。外面的な運命は、どうにも避けようがなく、神のみこころのままに、すべての人とおなじように私をかすめていったが、内面的な運命は私自身の作ったものであり、その甘さやにがさも私にはふさわしいものである。だから、この内面的な運命にたいしては私ひとりで責任を負《お》いたいと思うのだ。
 少年のころ、私は詩人になりたいという希望をいだいたことがよくあった。私が詩人なら、子どものころのこまやかな陰影《いんえい》や、愛着をもって守られている古い古い追憶《ついおく》のなつかしい泉にまで、自分の生活をたどっていく誘惑《ゆうわく》にさからうことができないだろう。けれども、この財宝《ざいほう》は私にはとてもなつかしく神聖なものなので、みずからこれをそこねたりなどしたくないのである。私の子どものころについては、ただ美しくたのしかったと言えるだけである。私には、自分の好みや天分をみずから見いだし、もっとも奥深い喜びも悲しみもみずから作り、また、えたいの知れない上からの力としてではなく、希望として自力で獲得《かくとく》したものとして、将来を見るという自由がゆるされていた。それで私はだれともかかわりあわないで、いくつかの学校をすごした。私はだれにも好《す》かれない、あまり天分のない、しかし、他からの強い働きかけを受け入れそうもないので結局なすがままにまかせられた、のんきな生徒だった。
 およそ六、七歳のころから、なんといっても音楽が特に強く私の心をとらえ、私の心を動かすことがわかった。そのときから、私は自分だけの世界を、隠《かく》れ場を、天国を持つことになった。この天国を私から奪《うば》いとったり、あるいは狭《せま》くしたりすることはだれもできなかった。私はこの天国を他の人と分けあうことも望まなかった。私は音楽家だった。もっとも十二歳以前には、楽器をひき鳴らすなんてことは習ったことがなく、また、のちに音楽の演奏によってパンをかせごうなどと考えたこともなかった。
 その後は、ずっとそのままの状態がつづいて、本質的な変化はなかった。だから、ふり返ってみると、私の生活は多彩《たさい》でも多様《たよう》でもなく、はじめから一つのグルントトーン〔基調〕に合わされていて、ただ一つの星をめあてにしていたようである。ほかの点でぐあいがよかったり、悪かったりすることはあっても、私の深い内生活はずっと変わらなかった。私は長いあいだ道草を食い、楽譜《がくふ》本や楽器にふれる気になれなかったが、それでも一つのメロディーが、いつでも私の血の中とくちびるの上にあったし、拍子《ひょうし》とリズムが呼吸といのちの中にあった。
 私はいろいろな他の方法で救いと忘却《ぼうきゃく》と解放をむさぼるように求め、神と認識と平和を熱望したが、それらはすべて、いつも音楽の中に見つかった。なにもベートーヴェンやバッハでなくてもよかった。――そもそも音楽がこの世の中にあるということ、人間はときおり心の底まで拍子に動かされ、ハーモニーの波に満たされるものだということ、このことが私にはたえず深い慰《なぐさ》めとなり、また、すべての生活を是認《ぜにん》するという意味をもった。
 ああ、音楽! ある一つのメロディーが心に浮かんでくると、声に出さずに心の中だけでそのメロディーを歌ってみる。すると、身も心もそのメロディーにひたされ、自分の力という力、動きという動きはすべて、このメロディーに独占されてしまう。――これが胸の中に生きているあいだは、すべての気まぐれなもの、悪いもの、がさつなもの、悲しいものを胸からぬぐい消してしまい、世界を共鳴《きょうめい》させ、重いものを軽くし、かたいものにも勇み立つ活気をあたえるのだ! ある一つの民謡のメロディーが、そうしたさまざまのことをなし遂《と》げるのである!

……第一章冒頭

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