「外套・肖像画」

ゴーゴリ作/北垣信行訳

ドットブック 223B/テキストファイル 118KB

400円

下級官吏アカーキエヴィチにある日、大きな生き甲斐がうまれた。外套を新調するという夢の実現である。生活を極度に切りつめ、ようやく念願かなった暁に、一大不幸が……。ドストエフスキーに「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出た」といわせたロシア文学の金字塔。芸術と人間生活の調和という普遍的なテーマを追求して、鬼才ゴーゴリの知られざる一面を伝える「肖像画」を新訳であわせ収録。

ゴーゴリ(1809〜52) ウクライナの小地主の息子。ペテルブルグへ出て小官吏となり、かたわら民俗的テーマの小品を書いてプーシキンに認められ、作家を志す。コサックを描いた歴史ロマン「隊長ブーリバ」のあとは、小官吏、小市民を描いた「ネフスキー通り」「検察官」「狂人日記」「外套」などを著してロシア・リアリズム文学の父となった。最後の代表作「死せる魂」と格闘し、1852年、印刷するばかりになっていた第二部の原稿を暖炉に投じてこの世を去った。

立ち読みフロア
ペテルブルクには、年に四百ルーブリそこそこの給料取りにとって、共通の強敵がいる。この強敵とはほかでもない、わが北国のきびしい寒さである。もっともこれは健康には、しごくよいのだそうだ。午前八時すぎ、つまり通りが役所がよいの連中でいっぱいになる時刻ともなると、これが、だれかれの差別なく鼻を強烈にちくちく刺しはじめるため、貧しい役人などは、その鼻をどう始末したらいいのか、まったく困りはててしまうのである。最高の役職にある者ですら、そのひどい寒さにおでこは痛むし、目には涙がにじみ出てくる。この刻限には、貧しい九等官などは時おり心ぼそい気持ちになってしまう。唯一の救いの手だては、薄っぺらなやくざ外套(がいとう)にくるまって、通りを五つ六つできるだけ足ばやに走りぬけてから、守衛室で十分に足ぶみをして、途中で凍りついてしまった執務能力と才能が融けだすのを待つことである。
アカーキイ・アカーキエヴィチは、いつもきまっている道のりを、努(つと)めてできるだけ早く走りぬけるようにしていたのに、いつごろからともなく背なかと肩のあたりに、なにやら特別ひりひり焼けつくような痛みを感じはじめた。彼はついに、これは結局自分の外套のせいではあるまいかと思い、家で外套をよくよく調べてみたところが、二、三か所、つまり背なかと両肩に、まるでぼろ木綿(もめん)のようになっている箇所があるのを発見した。ラシャ地がすっかりすりきれて透けて見え、当てぎれがぼろぼろになっているのである。ところで、知っておいていただかなければならないが、このアカーキイ・アカーキエヴィチの外套も、主人と同様に役人どもの嘲笑の的(まと)になっていて、みんなは外套というちゃんとした名前では呼ばずに、上(うわ)っぱりと呼んでいたのである。実際、それは一種珍妙なかっこうをしていた。えりは一年ごとに小さくなってきていた。えりが外套の他の部分の補布(つぎ)につかわれていたからである。しかも、その補布あての腕前が怪しかったため、それこそだぶついてぶざまなかっこうになっていた。
事の次第がわかると、アカーキイ・アカーキエヴィチは外套を服屋のペトローヴィチのところへ持っていかなければならないと、心にきめた。このペトローヴィチという男は、どこか裏ばしごをのぼった四階に住んでいて、めっかちで、顔じゅうあばただらけなのに、役人やそのほかいろんな連中のズボンや燕尾服(えんびふく)のつくろいを、相当手ぎわよくやってのけていた。もっとも、それは、その男がしらふで、頭に何かほかのもくろみ事を持っていないときに限られることは言うまでもない。この服屋のことなどは、もちろん、多くを語ることもないわけであるが、小説に出てくる人物は、どんな人物でもその性格をすっかり書きしるすことが習いである以上、このペトローヴィチをここに紹介することもやむを得まい。

……《外套》より

購入手続きへ


*** タイトル一覧へ *** ホームページへ ***