「父と子」

ツルゲーネフ/佐々木彰訳

ドットブック版 268KB/テキストファイル 206KB

600円

すべての価値を徹底的に否定する「ニヒリスト」バザーロフの言動を通して、新旧世代の対立と相克、根底からゆれ動きつつある当時のロシア社会を鮮やかに描ききったツルゲーネフの代表作。アルカージイとの友情、二人のそれぞれの恋、家族のきづなと愛情もこまやかに描かれた青春小説でもある。

ツルゲーネフ(1818〜83)富裕な大地主の息子。ペテルブルク大学を卒業後、ベルリン大学に留学。1843年に発表した「パラーシャ」によって認められた。その後、「猟人日記」で農民の悲惨を描き、「ルージン」「貴族の巣」「その前夜」「父と子」で、一貫してインテリのカリカチュアを描いた。外国生活が長かった彼は、西ヨーロッパとの文化交流の面でも尽力し、79年にはオックスフォード大学から法学博士の学位を授与されている。パリで永眠。二葉亭四迷の精力的な活動もあって、日本では、明治から大正時代にかけて最も熱心に紹介されたロシアの作家でもあった。

立ち読みフロア

「どうだな、ピョートル、まだ見えないか?」一八五九年五月二十日のこと、ほこりにまみれた小さめの外套を着て、格子縞のズボンをはいた四十がらみの紳士が、***街道に面した旅館の低い玄関口に、帽子もかぶらずに出てきて、自分の下男にきいた。下男は頬のふっくらした若い男で、あごには白っぽい生毛が生えており、どんよりした小さな目をしている。
 この下男のなにもかもが、つまり耳にさげたトルコ玉の耳飾りも、ポマードを塗りたくった光る髪の毛も、ていねいな物腰も、要するになにもかもが、この男が最も新しい改良された世代の人間であることを表わしていた。彼はおとなしく街道ぞいに目を走らせていたが、
「いいえ、見えません」と答えた。
「見えないか?」と旦那はくり返した。
「見えません」ともう一度、下男が答えた。
 旦那はため息をついてベンチに腰をおろした。彼が両足をベンチの下におし曲げて坐り、物思わしげにあたりを見回しているうちに、読者諸君に彼をご紹介するとしよう。
 彼の名はニコライ・ペトローヴィチ・キルサーノフという。この旅館から十五キロほど離れたところに、農奴が二百人もいるりっぱな領地を持っている。あるいは、彼が農民たちと境界定めをやって、『農園』を始めるようになってからの言いかたによると、二千ヘクタールの土地を持っている。彼の父は一八一二年の役(ナポレオン戦争)に参加した将軍で、ろくに読み書きもできない、むくつけき男であったが、しかし悪気のない、それこそロシヤ人らしい人間で、生涯つらい勤務に服し、はじめは旅団長を、それから師団長をやり、いつも地方回りをしていたが、官等のおかげで地方ではかなり幅を利かせていた。ニコライ・ペトローヴィチは、兄のパーヴェル(彼のことは後ほど話す)と同じように南ロシヤで生まれ、十四になるまで家庭で教育をうけた。安っぽい家庭教師や、あつかましいくせに卑屈な副官その他の司令部づきの連中に取りまかれて。母親はコリャージン家の出であり、娘のときにはアガーテと言っていたが、将軍夫人となってからはアガフォクレーヤ・クージミニシナ・キルサーノワと名乗った。彼女は『隊長の奥さん』タイプの人で、派手な室内帽をかぶり、サラサラうるさく音をたてる絹の服を着て歩いた。教会ではまつ先に十字架に近づき、大きな声でおしゃべりをし、朝は子供たちに自分の片手にキスをさせ、夜寝る前には彼らを祝福してやった。要するにしごくのん気に暮らしていた。
 ニコライ・ペトローヴィチは将軍の息子として――彼はあまり勇敢でなかったばかりか、臆病者というあだ名をつけられていた――兄のパーヴェルのように、軍務につくはずであった。しかし彼は、任命の通知がきたちょうどその日に、片足を折ってしまい、二カ月入院したのち、生まれもつかない『びっこ』になってしまった。父はあきらめて彼を文官とすることにした。数えで十八になるとすぐに、父は息子をペテルブルクに連れて行き、大学に入れた。ちょうどそのころ、兄は士官となって近衛連隊に勤務し始めた。若い二人は一つ家で共同生活を始め、母方の従伯父に当たるイリヤー・コリャージンという偉い役人が、遠くから二人を監督することとなった。父は師団へ、妻のもとへ帰り、ただ時たま息子たちに、灰色の大きな四つ切り大の便箋に、書きなぐったような威勢のよい筆跡でびっしり書きつめた手紙をよこすだけであった。手紙の最後には、『ピオートル・キルサーノフ陸軍少将』という文字が、入念に書かれた『渦巻き模様』に取り囲まれて、その美を誇っていた。
 一八三五年ニコライ・ペトローヴィチは学士となって大学を卒業し、同じ年にキルサーノフ将軍も、査閲の不首尾のために職を免ぜられて退き、妻とともにペテルブルクに移り住んだ。彼はタヴリーダ公園のそばに家を借り、イギリス・クラブに入会しようとしていた矢先、にわかに卒中で死んでしまった。アガフォクレーヤもじき夫のあとを追った。彼女はたずねる人もいない都の生活になじむことができなかった。隠居暮らしのわびしさにたえられなかったのである。一方、ニコライ・ペトローヴィチは、まだ両親が健在だったときに、それは彼らを大いに悲しませたことであったが、家主であるプレポロヴェンスキイという官吏の娘が好きになってしまった。それはかわいい顔をした、いわゆる頭のいい娘だった。彼女が雑誌で読むのは『学術』欄のまじめな論文だった。彼は喪があけるとすぐに彼女と結婚し、父親の口ききで入れてもらった御料地省をやめてしまい、マーシャと一しょに、初めは林業専門学校の付近にある別荘で幸福な日々を送ったが、それから市中にある小さな住み心地のよい借家に移り、最後に――田舎に移って、とうとうそこに住みつき、まもなく息子のアルカージイが生まれた。
 夫婦はしごくけっこうに、静かに暮らした。彼らはほとんど別れて暮らしたことがなく、共に読書をし、連弾でピアノをひき、二重唱をした。妻は花を植えたり、鳥小屋を見回ったりした。夫は時たま猟に出かけるほかは農地経営にいそしんだ。一方、息子のアルカージイは、やはり幸福に、静かにすくすくと育っていった。こうして十年が夢のようにすぎ去った。ところが四七年にニコライの妻が亡くなった。彼はからくもこのショックにたえたが、数週問のうちに髪の毛は白髪になってしまった。彼は、せめてすこしでも気をまぎらそうと思い、外国へ行く手筈をととのえた……そのとき四八年の革命(フランスの六月革命。ニコライ一世は革命のロシアへの波及をおそれ、外国旅行を禁止した)が始まった。彼はやむなく田舎に帰り、長いあいだすることもなくぶらぶらすごしたのち、農地経営の改革に着手した。五五年に彼は息子を大学へ入れるために、息子を連れて上京した。息子と一しょにペテルブルクで三冬すごしたが、ほとんどどこへも行かずに、アルカージイの若い仲間たちとつとめて交際した。最後の冬にはペテルブルクに行かれなかった。そしてわれわれは一八五九年五月の現在、すっかり白髪頭になった、小ぶとりで、すこし背中の曲がった彼を見ているのである。彼は往年の自分のように学士となって帰ってくる息子を待っているのである。
 下男は旦那への遠慮から、ことによれば、旦那の目のとどくところにいたくなかったので、門の下へ行って、パイプをふかし始めた。ニコライ・ペトローヴィチはうなだれたまま、昇降口の古ぼけた段々を眺め始めた。まだら色のひよっ子が一羽、堂々と胸をはって段々の上を歩き回っている、黄色な大きい脚で威勢よく脚音をたてながら。うす汚れた猫が一匹、すまして手すりの上にうずくまって、うさんくさそうに時々それを盗み見ている。
 じりじりと太陽が照りつけていた。旅館のうす暗い玄関からはあたたかい黒パンの匂いがただよってくる。ニコライ・ペトローヴィチは空想にふけった。「息子……学士……アルカーシャ(アルカージイの愛称)……」――という考えがたえず彼の頭の中を堂々めぐりするのであった。なにかほかのことを考えようとしても、いつしかまた同じことを考えているのだった。彼は死んだ妻のことを思いだした……「あれが生きていてくれたら!」と彼はさびしそうにつぶやいた……まるまる肥った青鳩が街道の上に飛んできて、井戸のわきの水たまりへ、急いで水を飲みに行った。ニコライ・ペトローヴィチは今度は鳩を眺め始めたが、このとき耳に、近づいてくる馬車の車輪の音が聞こえてきた。
「お見えのようです」と門の下から姿を現わして、下男が注進した。
 ニコライ・ペトローヴィチは跳び起きて街道沿いに目をこらした。三頭立ての駅馬をつけた旅行馬車が見えてきた。馬車の中から学生帽の鉢巻きと、かわいい息子の見なれた顔立ちがちらちら見えた……
「アルカーシャ! アルカーシャ!」とキルサーノフは大声で叫び、駆け出して、両手をふった……数分後にもう彼の唇は、若い学士のひげのない、ほこりをかぶった、日焼けした頬におしつけられていた。

……冒頭より

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