「ドウエル教授の首」

アレクサンドル・ベリャーエフ/袋一平訳

ドットブック版 230KB/テキストファイル 147KB

500円

女医マリー・ローランは、決して秘密を漏らさないという条件で、ケルン教授の助手として雇われた。教授の実験室内部で彼女が見たものは、まばたきしながらじっと彼女を見つめている、胴体から切り離された生首であった! それは最近死んだばかりの高名な外科医ドウエル教授の首だった。その「首」の生命維持の仕事を命じられた彼女は、やがてケルン教授の研究の真相を知ることになる……「ロシアSF界のジュール・ヴェルヌ」ベリャーエフの高名なSFスリラー古典!

アレクサンドル・ ベリャーエフ(1884〜1942)「ロシアのヴェルヌ」と呼ばれるSF作家。スモレンスク市に司祭の息子として生まれる。法律学校卒業後、弁護士をへてスモレンスク新聞編集長。脊椎カリエスで6年間の療養生活。のちモスクワに出て郵政省勤務。『ドウエル教授の首』で認められ作家に。他の代表作に「両棲人間」「ワグナー教授シリーズ」などがあるが、ソ連体制下では厚遇されなかった。

立ち読みフロア
最初の出会い

「どうぞおかけなさい」
 マリー・ローランは深々とした皮張りの肘掛椅子に腰をおろした。
 ケルン教授が封を切って手紙を読んでいるあいだ、彼女は書斎に目を走らせた。
 なんて陰気な部屋だろう! でも研究にはもってこいだわ、気を散らすものはなにもないし。光の洩れぬシェードをかぶせたスタンドが、本や原稿や校正刷りなどであふれている書きもの机のうえだけを照らしている。黒樫(かし)のがっしりした家具がやっと見分けられる。黒っぽい壁紙、黒っぽいカーテン、薄暗がりのなかできらりと光るのは、重々しい書棚にならぶ本にあしらってある金だけだ。古びた掛時計の長い振子がリズミカルに淀みなく動いている。
 ケルンに視線をうつして、ローランは思わず微笑んだ。このひと自身、書斎のスタイルに完全にマッチしているじゃない。樫の木をけずってつくったような、どっしりといかめしいケルンの姿は、家具調度の一部のように見えた。べっ甲ぶちの大きな眼鏡は、ふたつの時計の文字板を思わせた。灰色の眼が、振子のように、手紙の行から行へ行ったり来たりしていた。直角の鼻、真一文字の眼と口、角ばって突きでている顎、それらは立体派の彫刻家がつくる様式化した装飾面のような感じを顔にあたえていた。
《暖炉にこういうお面を飾ったらどうかしら》とローランは思った。
「同僚のサバチエからあなたのことはききました。そう、ぼくは助手を求めているんです。あなたは医師の資格をお持ちですね? けっこう。一日四十フラン、毎週払い、二食つき、ということにしましょう。ところでひとつ条件があるんですがね……」
 脂気のない指で机をたたきながらケルン教授は思いもかけぬ質問をした。
「あなたは黙っていることができますか? 女はみんなおしゃべりです。あなたは女だ――これはうまくない。あなたは美人だ――これはもっとうまくない」
「でもそれとどういう関係が……」
「最も密接な関係があるんです。きれいな女性は――二倍の女性なんです。つまり、女性の欠点も二倍もっている。あなたには御主人か親友かフィアンセがたぶんあるでしょう。そうなったら秘密もなにもあったものじゃない」
「でも……」
「なにが《でも》です! あなたは魚のように唖(おし)にならなければならない。ここで見聞きしたことは一切口外してはならない。この約束が守れますか? 前もって言っておきますが、約束不履行のばあいは、きわめて不愉快な結果を招くことになります。きわめて不愉快な結果をですよ」
 ローランは困ってしまったが、同時に興味もわいてきた……
「わかりました、ただ、そういうことが……」
「犯罪に関係がなければ、とおっしゃりたいんでしょう? 大丈夫、安心していいですよ。あなたにはなんの責任もかかりませんから……あなたは神経のほうは正常ですか?」
「わたしは健康です……」
 ケルン教授はうなずいた。
「一族のなかで、アル中とか神経衰弱とかてんかんとか気違いとか、そういうひとはいませんでしたか?」
「はい」
 ケルンはもう一度うなずいた。
 脂気のないとがった指が、呼鈴のボタンをぎゅっと押した。
 ドアが音もなくひらいた。
 薄暗い部屋のなかにいて、ローランには最初、現像中のフィルムを見ているみたいに、白い眼だけが見え、それから光のあたる順に、黒人のつやつやした顔があらわれてきた。黒い髪と黒い服はドアの黒っぽいカーテンととけあっていた。
「ジョン! マドモワゼル・ローランに実験をお目にかけたまえ」
 黒人は、自分のあとについてくるようにとうなずいてみせ、べつのドアをあけた。
 ローランはまっくらな部屋にはいった。
 スイッチの音がして、四つの艶(つや)消し電燈の明るい光が部屋をみたした。ローランは思わず眼をおおった。薄暗い書斎のあとでは、ここの壁の白さはまぶしかった……きらきらする外科器具をいれた戸棚のガラスが輝いた。ローランのまだ見たこともない鋼鉄やアルミの器具が冷たい光をはなっていた。黄色い暖かな色をみせるのは、みがきあげられた銅の部分にあたる光だった。管、巻管、蒸溜器、ガラスの円筒……ガラス、ゴム、金属……
 部屋の中央には大きな解剖台が置いてある。それとならんでガラスの箱があり、そのなかでは人間の心臓が鼓動していた。心臓からは管が何本かフラスコに通じていた。
 ローランは頭をわきへめぐらした、そのとき、電気に触れたみたいに身震いせずにはいられないような、あるものを見た。
 人間の首が彼女を見ていた、胴体のない首だけが。
 それは四角いガラスの板のうえに固定されていた。板を支えるのは四本のきらきら光る長い金属の脚だった。ガラスにあけられた孔を通って、切断された動脈と静脈が、それぞれまとまって、フラスコに管でつながっていた。もっと太い管が咽喉から出て、大きな円筒に通じていた。円筒やフラスコには、栓や圧力計や、ローランにはよくわからない器具類がついていた。
 首はまばたきしながら、じっと、悲しげにローランを見つめていた。もはや疑う余地はなかった。首は生きている、胴体から分離したまま、独立して、意識のある生を生きている。

……冒頭より


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