「ドリアン・グレイの肖像」

オスカー・ワイルド/渡辺純訳

ドットブック版 247KB/テキストファイル 217KB

500円

快楽主義の権化ヘンリ・ウォットン卿の言葉に幻惑されて、麻薬を知り、娼窟に足を踏み入れ、とめどない背徳におぼれていく美青年ドリアン・グレイ……それを証するかのように、彼の肖像画にはアザができ、亀裂がはいり、どこまでも醜くなっていく。世紀末の唯美主義者ワイルドが描いた怪奇幻想物語。
立ち読みフロア
 部屋の真中には、まっ直に立っている画架に、並はずれて美しい青年の等身像がうちつけてあり、その前にはやや離れて画家バジル・ホールワードが腰をおろしていた。彼が数年前、突然行方不明になったとき、世間では大騒ぎをして、いくたの奇怪な憶測のたねをまいたものだった。
 自らの芸術にかくも巧みにうつし出した美《うる》わしの姿を眺《なが》めやった時、喜びの微笑が画家の顔にただよい、しばらくは消えぬかに見えたが、急にはっとして立ちあがって眼を閉じ指を瞼《まぶた》にあてた。あたかもそれは、覚めるのがこわい不思議な夢を頭の中に閉じこめようとするかのようであった。
「バジル、君の最高作品だ、今までの最高傑作だ」とヘンリ卿はものうそうに言った。「来年は是が非でもグロヴナーに出品しなくちゃいけない。王立芸術院《アカデミー》のほうは大きいばかりであまりに俗っぽいからね。アカデミーと来たら、いつ行っても見物人が多すぎて、画が見えない始末でとてもやりきれない。さもなければ、画のほうが多すぎて、人が見えないと来ている。こいつのほうはなおさら困るんだ。グロヴナー以外ちょっと場所はないね」
「僕はどこにも出品する気持ちはないんだ」と画家は、オックスフォード時代に友人連の笑いのたねとなった奇妙な癖で、頭を後ろへふりたてながら言った。「そうだ、どこにも出品するつもりなんかない」
 ヘンリ卿は眉《まゆ》をつりあげて、強い阿片入りの巻煙草のゆらゆらと立ち昇る淡い紫煙の輪越しに驚いて画家を見た。
「どこにも出さないって? なぜだ? 何かわけがあるのか? 君たち絵かき連中は実に変人だね。名を売るためならどんなことだってやるくせに、名が売れるとすぐにそれをすてたくなるようだ。馬鹿馬鹿しいことだよ。なぜって、噂《うわさ》されるよりもっとひどいことがたった一つあるんだ。そいつは噂されないことさ。こんなにすばらしい肖像画だったら、英国中の青年よりも君を上位においてくれるだろうし、老人連中にも妬《ねた》ましく思わせるだろう。もしも老人連が感情なんて持ちうるとしてね」
「君に笑われることはわかってるんだが」と彼は答えた。「実際出品できないんだ。僕は自分というものを、この絵の中につぎこみすぎたんだ」
 ヘンリ卿は長椅子《いす》の上に長々と寝そべって笑った。
「そうだ、君が笑うことはわかってたよ。だがやっぱりそいつはまったくのところほんとうなんだ」
「絵にあまり自分をつぎこみすぎただって! たしかにバジル、君がそんなにしょってるってこと、僕も知らなかった。いかつい、強そうな顔でまっ黒な髪をしている君と、まるで象牙と薔薇《ばら》の花びらからできたみたいな顔をした、このアドーニス〔ギリシア神話でヴィーナスに愛された美少年から一般に美少年をいう〕とは、たしかに月とすっぽんだ。ねえ、バジル、この青年はナーシサス〔ギリシアの伝説で、泉の水に映った自分の姿の美しさを恋いこがれて溺死し、水仙の花に化した青年〕だ。それに君ときたら――もちろん君には、知的表情とか何とか色々あるにはあるさ。だけれど、美、真の美は、知的表情のはじまる処《ところ》で終わるものなんだ。知性とは、元来誇張の一様式だ。そうしてどんな顔にせよ、その調和を破るものだ。坐って考え始めるやいなや、人間は顔中鼻とか額ばかりになったり、見るも嫌《いや》なものになってしまう。学問的職業で成功してる人間を見るがいい。何と見るもいまわしい奴ばかりだろう! もちろん教会だけは別だがね。ところで教会では考えるってことをしないんだ。教会の監督は十八歳の時に教えられたことを、八十歳になっても相変わらずしゃべってるんだ。しぜん、実に愉快そうな顔をしていられるというものさ。君が名前をあかさないんだが、このほれぼれする、肖像画のぬし《ヽヽ》の若い、いわくありげな君の友人は、考えることをしないんだ。僕はこの点絶対確信があるんだ。眺《なが》める花もない冬にも知性のほとばしりをさましたいと思う夏にも、ぜひ一緒にいて欲しいような、頭っていうもののない美しい人間さ。バジル、自惚《うぬぼ》れるんじゃない。君が似たところは薬にしたくもないな」
「ハリー、君は僕の言うことがわからないんだ」と画家が答えた。「もちろん僕は彼に似ちゃいない。それはわかりすぎるくらいわかってる。実のところ、彼に似ることはごめんだ。君、肩をすぼめたな。ほんとうのことを言ってるんだ。肉体的、知的優越性には何かしら宿命的なところがある。そうしてこいつが王者のよろめく足取りに昔からつきまとっているのだ。仲間と変わったところがないほうがいいさ。醜い奴、馬鹿な奴がこの世では勝つ。奴らは楽々と坐って、ぽかんと口をあけて高見の見物だ。奴らは勝利の味を知らなくても、少なくとも敗北だけはまぬがれている。奴らは平穏無事に、無関心の生きかたをしている。これが万人のお手本というところだよ。他人に破滅をもたらさず、他人から破滅をこうむることもない。ハリー、君の地位と富、貧弱ながら僕の頭――たいした価値もないにせよ、僕の芸術、ドリアン・グレイの美貌――僕たちは神からさずかったもの故に苦しむ――うんと苦しむんだ」
「ドリアン・グレイ? それが彼の名前か?」とヘンリ卿は画室を横ぎってバジル・ホールワードのほうへ歩きながらたずねた。
「そうだ、それが彼の名前だ。僕としちゃ君に言うつもりはなかったんだ」

……「第一章」より

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