「人形の家」

イプセン作/林穣二訳

ドットブック版 130KB/テキストファイル 87KB

300円

銀行の頭取に出世した堅気な弁護士ヘルメルとその妻ノーラとは、仲むつまじい夫婦であった。だがノーラには、夫が病に冒されたときに、借用証書に偽りの署名までして内緒で工面した借金があった。その借金の相手はヘルメルによって職場をくびにされると、秘密の暴露とひきかえにノーラに、復職を夫に働きかけるよう迫る。スキャンダルは危うく未然に回避されるが……ノーラは決然として子どもと家を捨てて出ていく。心を描く近代劇の出発点となった記念碑的作品。

イプセン(1828〜1906) 南ノルウェーのシーエン生まれの劇作家。幼いとき父が破産し、暗い少年時代をおくる。大学で医学を学ぼうとしたイプセンは、受験勉強のためにラテン語でキケロを読んでいるうちに、戯曲『カティリーナ』を書き上げた。評判は良く、作家としての自信は、これによって高まった。しかし祖国に失望し、1864〜92年まで海外に活動の場をもとめた。1866年『ブラン』が大成功をおさめ、国王に請願していた詩人の報酬がかなえられ、国の代表的詩人となった。その後『ペールギュント』『人形の家』『幽霊』など数々の名作を生み出し、近代劇の創始者となった。

立ち読みフロア
〔玄関でベルが鳴る。まもなく扉が開く音がする。ノーラが、楽しそうに、鼻唄(はなうた)をうたいながら、居間にはいってくる。外套(がいとう)を着ている。包みをたくさん抱えてきて、右手のテーブルの上に置く。玄関へ通じる扉があけっぱなしになっていて、そとにメッセンジャーがいるのが見える。メッセンジャーは、クリスマス・トリーと籠(かご)を持っている。玄関をあけにきた女中にそれを渡す〕
  
【ノーラ】 ヘレーネさん、クリスマス・トリーをじょうすにかくして置いて。今晩、飾り付けがすむまで、こどもたちに見せないようにね。〔財布(さいふ)を出し、メッセンジャーにむかって〕おいくら――?
【メッセンジャー】 はい、五十エーレで。
【ノーラ】 では、一クローネ。いいわ、とっておいて。
〔メッセンジャーが、礼を言って、出てゆく。ノーラが扉(とびら)をしめる。いつまでもうれしそうにしずかに笑いながら、外套を脱ぐ〕
【ノーラ】 〔ポケットからマクロン(アーモンドの粉を練って、天火で焼き上げた菓子。語源はイタリアのヴェニス方言のマカローネ)のはいった袋を出して、二つ三つ食べる。それから、そっと夫の部屋(へや)の扉のところへいって、きき耳をたてる〕あっ、やっぱりいるわ。〔また鼻唄(はなうた)をうたいながら、右手のテーブルの方へゆく〕
【ヘルメル】 〔自分の部屋のなかで〕そこでさえずっているのは、ひばり(・・・)んかな?
【ノーラ】 〔包みをいくつか開きながら〕そうよ。
【ヘルメル】 そこではねまわっているのは小りす(・・)さんかい?
【ノーラ】 そうよ。
【ヘルメル】 小りす(・・)さんは、いつ帰ってきたんだい?
【ノーラ】 今帰ったところよ。〔マクロンの袋をポケットにいれて、口のまわりを拭(ふ)く〕トールヴァル!出ていらっしゃい。買っていた物を見せてあげるわ。
【ヘルメル】 じゃましないで!〔しばらくしてから扉を開いて、ペンを手に持ったままのぞく〕買い物をしたんだって? そんなにたくさんかい? かわいいひばり(・・・)ちゃんは、とび出していったかと思うと、またお金をばらまいてきたんだね。
【ノーラ】 でも、あなた。今年はすこしくらい羽目(はめ)をはずしてもいいでしょう。クリスマスにけちけちしなくてもいいのは、こんどがはじめてなんですもの。
【ヘルメル】 おい、だからといって、むだづかいはいけないぞ。
【ノーラ】 ええ。でも、すこしぐらいはいいでしょう。ね? ほんの、ちょっぴりよ。これからは、あなた、月給がたくさんになって、お金がどっさりはいるんですもの。
【ヘルメル】 まあ、そうだけれど、それは新年からのことだ。月給が手にはいるまでには、まだまる三ヶ月もあるよ。
【ノーラ】 なんのことないわ。それなら、それまで借りておけばいいじゃないの。
【ヘルメル】 こら、ノーラ!〔ノーラのそばへいって冗談(じょうだん)に耳をひっぱる〕おい、また軽はずみなことを言うね? いまかりにだな。ぼくがきょう千クローネ借りてきて、おまえがそれをクリスマス週間につかってしまったとする。そこへ、大晦日(おおみそか)の晩に、ぼくの頭の上に瓦(かわら)が落ちてきて、倒れたとする、そうすると――
【ノーラ】 〔手で夫の口をおさえて〕いや! やめて、そんないやなお話!
【ヘルメル】 だが、もしかりにそういうことが起きたとすると、――いったいどういうことになる?
【ノーラ】 そんなこわいことが起きたら、借金なんか、あったって、なくったって、おんなじじゃない?
【ヘルメル】 だが、ぼくにお金を貸してくれた人たちはどうなる?
【ノーラ】 そんな人のことなんか、かまっていられないわ! どうせ赤の他人ですもの。
【ヘルメル】 ノーラよ、ノーラよ、汝の名は女なり!か。だけど、ねえ、まじめな話だが、僕がこういうことをどう考えているか、よく知っているだろう、借金をしない! どんなことがあっても、金を借りない! 借金の上に成り立っている家庭は、どことなく自由が失われている。なんとなく、醜(みにく)さがそとに出てくる。ぼくたち、いままで借金しないでがんばってきたのだから、あともう一息だ。しんぼうしよう。
【ノーラ】 〔暖炉の方へゆきながら〕はい、はい、あなたのお気がすむように。
【ヘルメル】 〔あとからついてゆく〕おいおい、ひばり(・・・)ちゃん、そんなに羽をすぼめてしまわなくたっていいじゃないか。おや、どうした? りす(・・)さん、すねたんだね。〔財布(さいふ)をだして〕ノーラ、なかになにが入っていると思う?
【ノーラ】 〔くるりと振り向いて〕お金でしょう!
【ヘルメル】 おい、ほら。〔紙幣を数枚渡す〕ぼくだって、クリスマスには、家計費がかさむことぐらい、わかっているさ。
【ノーラ】 〔勘定する〕十――二十――三十――四十。どうもありがとう。これで当分助かるわ。
【ヘルメル】 それはそうだろう。
【ノーラ】 ええ、ええ、なんとかやってゆけますわ。それはそうとして、こっちへきて。こんなに買い物したのよ。見て! とっても安かったのよ。ほら、これがイーヴァルの新しい服。――それにサーベル。これがボッブの馬とラッパ。それから、これがエミーのお人形とお人形のベッド。ずいぶん粗末な品だけれど、どうせあの子はすぐこわしてしまうのだもの。それから、これが女中たちにやる服地とハンカチ。ばあやさんには、もっとかってあげたいのだけれど。

……第一幕冒頭


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