「イワン・デニソビッチの一日」

ソルジェニツィン/小笠原豊樹訳

ドットブック版 120KB/テキストファイル 122KB

400円

「朝の五時、いつものように起床の合図が鳴った…」で始まり、「一日が過ぎ去った。どこといって陰気なところのない、ほとんど幸せな一日が」で終わる、強制収容所(ラーゲリ)の一日の物語。だがそこには濃密な「人間の日々の暮らし」が息づいていた……発表と同時にセンセーションと広範な論議を呼び起こしたソルジェニツィン44歳のときの処女作であり、ロシア文学の名作中の名作。

ソルジェニツィン(1918〜)旧ソ連に生まれ、ロストフ大で物理数学を学んだ。対独戦に従軍したが、45年、不当な告発によって、8年間の服役生活を送った。その後、物理と数学の教師を務めながら「イワン・デニソビッチの一日」を書き、一挙に世界の注目をあびるようになった。しかし69年、作品が反ソ的とされて作家同盟を除名された。70年にノーベル文学賞を受賞したが、受賞式に出たら帰国させないという圧力で断念。74年には反体制的運動を理由に国外追放となり、スイスに住んだ。その後アメリカに渡り、94年にゴルバチョフによってようやく帰国を許された。他の代表作は「マトリョーナの家」「がん病棟」「煉獄の中で」「収容所群島」など。

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 朝の五時、いつものように起床の合図が鳴った。本部バラックの脇のレールをハンマーで叩く音。とぎれとぎれの響きが、指二本の厚さに凍りついた窓ガラスを通して、かすかに伝わり、まもなく静まった。この寒さでは、看守も永いこと鳴らすのが億劫《おっくう》とみえる。
 音は消えたが、窓の外は、シューホフが用便に立った真夜中とすこしも変わりない、闇また闇だ。黄色いあかりが三つ、窓に映って見える。二つは立入り禁止区域〔有刺鉄線の両側二メートル幅の地帯〕の、一つは収容所《ラーゲリ》構内のあかりである。
 なぜかバラックの扉をあけに来る様子がない。当番の者が用便桶に棒をさしこんで、かつぎ出す音もきこえない。
 シューホフは、起床合図を聞きもらしたことは一度もなかった。いつも合図と同時に起きる。点呼までの一時間半は、公《おおや》けのものではない、自分の時間だった。収容所《ラーゲリ》の生活を知る者は、つねに内職のチャンスを逃すまいとする。だれかに、古服の裏地で、指なし手袋のカバーを縫ってやってもいい。金まわりのいい班員の寝床まで、乾いたフェルト靴〔膝までの防寒用長靴〕を運んでやってもいい。山と積まれた靴のまわりで、はだしで足踏みしながら、えらび出す手間がはぶけるわけだ。あるいは、衣料配給所をひとまわりして、掃除をしたり、何かを運んだり、相手構わずサービスする。あるいは、食堂へ行って、テーブルの上の食器を集め、見あげるばかりに積みかさねたのを食器洗い場まで持って行く。これをやると、たべものにありつけるが、それだけに志願者が多くて、どうにもならない。しかも、食器に何か残っていたら、つい我慢しきれなくなって、食器をなめてしまうのが問題である。シューホフは、最初の班長だったクジョーミンのことばを、はっきり記憶していた。一九四三年ですでに服役十二年目という、この収容所《ラーゲリ》の古狼は、いつか森の空地の焚火のかたわらで、戦線から引っ張られた新入りたちに、こう言ったのである。
「いいか、ここの掟は、すなわち密林だ。ただし、こんな所でも人間は生きられる。収容所《ラーゲリ》で身をほろぼすのは、食器をなめる奴、医療部に行きたがる奴、それから政治将校《クーム》に密告する奴」
 政治将校《クーム》に密告というのは、もちろんクジョーミンの義憤だった。密告する連中は、わが身を守ることが上手なのだ。ただし、他人を犠牲にして身を守る。
 いつも合図と同時に起きるシューホフだが、今日は起きなかった。ゆうべから、どうも具合がよくなかったのである。寒気がするかと思えば、体のふしぶしが痛んだ。おまけに一晩じゅう体があたたまらなかった。夢うつつで、ひどい病気になったと思い、またいくらかよくなったかとも思った。朝が来るのがいやだった。
 けれども朝はとどこおりなくやって来た。
 だいたい、ここで体があたたまろうはずはない。窓には氷がこびりついているし、壁と天井が接するあたりには、バラック中(なんというバラックだろう!)白い蜘蛛の巣が張っている。霜だ。

……冒頭より

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