「死せる魂」

ゴーゴリ/工藤精一郎訳

ドットブック版 359KB/テキストファイル 293KB

700円

ロシアのN市にある日、従僕と馭者を連れた「美男子でもなく、みにくくもなく、太りすぎでもなく、やせすぎでもない、老人でも青年でもない、ひとりの紳士」があらわれる。男は洗練された物腰と世慣れた調子で、あっというまに、N市の有力者たちとじっこんになり、何人かの屋敷に招待を受ける。男は機をみて、いそいそと招待を受けた紳士のもとを順に訪れ、やぶからぼうに「死んだ農奴を売ってもらいたい」と申し出る……いったい何のため、どうする気なのか、これは全員が感じた疑念だった。ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフと続く、巨大なロシア文学の森の出発点となった記念碑的作品であるが、全体は良質なミステリーといってもよい。

ニコライ・ゴーゴリ(1809〜52) ウクライナの小地主の息子。小官吏となり、かたわら民俗的テーマの小品を書いてプーシキンに認められ、作家を志す。コサックを描いた歴史小説「タラス・ブーリバ」のあとは、小官吏、小市民を描いた「外套」「狂人日記」などを著してリアリズム文学の父となった。

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「ねえ、おまえ! 人口調査表を提出したときから、どのくらいの農奴が死んだかな?」
「どのくらいとおっしゃるんですか? あれ以来ずいぶんたくさん死にましたな」と管理人は言って、手でふたをするみたいに軽く口をおさえて、ひとつからせきをした。
「うん、実のところ、わたしもそう思うよ」とマニーロフが受けた。「たしかに、ずいぶんたくさん死んだよ!」ここで彼はチチコフのほうを見て、さらにつけくわえた。「たしかに、ずいぶんたくさん死にましたよ」
「それで、だいたい何人くらいです?」とチチコフはきいた。
「そう、何人ぐらいだね?」とマニーロフはつたえた。
「さあ、数ですか? 何人死んだか、わかりませんな。だれもかぞえていないので」
「うん、たしかにそのとおりですよ」とマニーロフはチチコフのほうへ顔を向けながら、言った。「わたしもたくさん死んでるとは思いますが、さて何人となると、かいもくわからんのですよ」
「きみ、それを調べてくれんかね」とチチコフは言った。「死亡者全員の詳細《しようさい》な名簿をつくってくれたまえ」
「そう、全員の名簿をな」とマニーロフは言った。管理人は、「かしこまりました!」と言って、――引きさがった。
「だが、どうしてそんなものが必要なのです?」と、管理人が出てゆくのを待って、マニーロフはきいた。
 この問いは、どうやら客を困惑《こんわく》させたらしく、その顔になにかこう緊張した表情があらわれ、そのために顔が赤らんだほどだった。――それはなにか思うように言えぬことを言おうとする緊張であった。そして事実、マニーロフがついにきき出したのは、かつて一度も人間の耳が聞いたことがないような、世にも奇妙な、異常なことがらであった。
「どういう理由で、とおききですね? つまりこういうわけです。わたしは買いたいのですよ、その農奴を……」と言いかけて、チチコフは口ごもって、おしまいまで言えなかった。
「とおっしゃると」とマニーロフは言った。「つまり、農奴を買いたいということですが、それは土地といっしょにですか。それとも単に移住させるために、つまり土地とは別にですか?」
「いいえ、農奴を持ちたいというのじゃないんですよ。ぜんぜんちがうんです」とチチコフは言った。「わたしがほしいのは死んだ農奴なので……」
「なんですって? ごめんなさい……わたしすこし耳が遠いので、なにかいまじつに妙なことが聞こえたような気がしましたが……」
「わたしは実際には死んでるが、戸籍の上ではまだ生きてることになっている農奴を手に入れたいと思うのですよ」とチチコフは言った。
 それを聞くと、マニーロフは吸い口をつけた長いキセルを床の上へとりおとし、ポカンと口をあけて、そのまま数分のあいだあいた口がふさがらなかった。友情にみちた生活の楽しさを論じ合ったふたりの友は、むかし鏡の両側に向き合いにかけられていた肖像画のように、互いに相手の目をみつめ合ったまま、ぽかんとしていた。やがてマニーロフは長いキセルをひろいあげながら、下から、じろりと相手の顔を見た。こちらをからかったのではないか、口もとに薄笑いが浮かんではいないか、見定めようとしたのだが、そのようないろはぜんぜん見えず――それどころかかえっていつもよりも厳粛にさえ思われた。そこでふと、客がなにかのはずみに不意に気がふれたのではないか、と思って、ぞーっとしてその顔を見まもったが、客の目はきれいに澄んでいた。そこには狂人の目の中にちらちら燃えている、あの粗暴な、不安な火はなかった。すべてが整然としていて、すこしのみだれもなかった。どういう態度をとり、なにをしたらいいのかと、マニーロフはさんざん思案したが、口の中にのこったけむりをひじょうに細い流れにしてはき出すこと以外に、なにも思いつくことができなかった。
「そこで、こういった実際には生きていないが、法的な形の上では土きている農奴を、売却なり譲渡《じようと》なり、あるいはあなたが好都合とお考えになる形式でおゆずりしていただくわけにはいかないでしょうか。いかがなものでしょう?」
 だが、マニーロフはすっかりうろたえて、頭が完全に混乱してしまって、ただぼうぜんと目をみはっているばかりだった。
「どうやら、お困りのようですな?……」とチチコフは言った。
「わたしですか?……いいえ、そうじゃないのですが」とマニーロフは言った。「ただ、得心《とくしん》がいきませんで……ごめんなさい……わたしは、むろん、あなたのあらゆる動作に、いわばにじみ出ているような、そういう輝かしい教育は受けることができませんでしたし、高度の表現技術は身につけておりませんので……あるいは、この……いまあなたがおっしやられたことの中には……別な意味がかくされているのではないでしょうか……もしかしたら、ことばの美しさをあらわすためにこのような表現をなさったのではないでしょうか?」
「いいえ」とチチコフはおうむ返しにいった。「そうじゃありません、わたしは対象を率直に申し上げているのです。つまり実際にもう死んでしまった農奴たちのことです」
 マニーロフはすっかり度を失ってしまった。彼はなにかしなければならない、なにか質問をしなければならない、と感じたが、どんな質問をしたらいいのか――とんと見当がつかなかった。そこでけっきょくは、またけむりをはき出すことでおわったが、ただ今度は口からではなく、ふくらませた鼻の穴からだった。
「では、もしさしつかえなかったら、さっそく登記証書の作成にかからせていただきたいのですが」とチチコフは言った。
「なんとおっしゃいます、死んだ農奴の登記証書ですと?」

……第二章より

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