「大草原」――ある旅の話

チェーホフ/中村白葉訳

ドットブック版 163KB/テキストファイル 106KB

240円

一見なんの奇もない旅行記。九歳の男の子が遠い町の学校へはいるために、知合いの僧侶と伯父にともなわれて、はてしもない草原を何日も馬車に揺られて行く、ただそれきりの話……しかし渋い興味と清らかな詩情にあふれた1編。作家チェーホフの出世作であり、作家生活への真のスタートをなした作品。風にそよぐ雑草や草花などの香気は、自然描写の名手ツルゲーネフ、トルストイにならび、その名文ぶりをうたわれている。

チェーホフ(1860〜1904)ロシアの作家。モスクワ大学医学部を卒業し、医師のかたわら、最初は多数のユーモア短編小説を書いたが、20代の後半から本格的な文学を志すようになった。中期の作品には、社会的問題を取り上げ、当時の反動政治のもとであえぐ知識階級の絶望と消極性と卑劣さをあばく作品が多い。肺結核とたたかいながら、ヤルタに転地し、晩年に至る後期の作品は、世紀末の停滞した空気の中で埋没していく人間への批判と、真の人生を見出そうとする人々がテーマとなっている。代表作に『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の四大戯曲のほか、『六号室』『中二階のある家』『決闘』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』などがある。44歳で亡くなった。

立ち読みフロア
 Z――県の郡役所町N――町から、七月の朝早く、一台の、使い古したぼろぼろのバネなし半蓋四輪馬車―今日ロシアでは、商人の番頭とか、家畜商人とか、金のない司祭たちしか乗らないような、古色蒼然たる馬車のひとつ――が乗出して、凄まじい音響を立てながら、郵便道路をがたくりはじめた。馬車はちょっとの運動にも、鈍い音を立ててぎしぎし軋《きし》んだ。それにまた、その後部に結わえつけられていたバケツが、陰気にこの音に調子を合わせた、――これらの音を聞いただけでも、また、その剥げた車体にびらびらさがっている、みすぼらしい革のぼろぎれを見ただけでも、その古さ加減と、いまにも毀《こわ》れそうになっていることとが、判断できた。
 馬車には、ふたりのN――町の住民が乗っていた――無髯に眼鏡、麦わら帽子という風采が、商人というよりも官吏らしく見える、N――町の商人イワン・イワーヌイチ・クジミチョーフと、いまひとりは――灰色のズックの裾長《すそなが》の百姓外套に、鍔《つば》の広いシルクハットをかぶり、繍《ぬ》いのある華やかな帯をしめた、小柄な、髪の長い老人で、N――町のニコラエフスカヤ教会の管長である神父フリストフォール・シリースキイとであった。前者は、何事か一心に考えている様子で、眠気を追払うために、時々頭を振っていた。その面上では、習慣になっている事務的な冷静が、たったいま身内の者と別れて来たばかりの、いい工合に酒の廻っている人の温良さと、闘っていた。後者は、濡れたような眼で、びっくりしたように神の世界を眺めながら、時々その笑いがシルクハットの鍔まで届くかと思われるほど、豊かに微笑していた。彼の顔は真赤で、凍えたような様子をしていた。ふたりは今、クジミチョーフも神父フリストフォールも共に、羊毛を売りに行くところであった。家人たちとのわかれに、彼等はたったいま、酸クリーム入りのドーナツを腹一ぱい食べ、早朝にも拘らず、一杯やって来たのである……で、ふたりとも気分は上々であった。
 以上に挙げたふたりと、張り切った二頭の栗毛馬を飽きず鞭打っていた馭者のデニースカのほかに、馬車の中にはもうひとり客が――日にやけた真黒な顔を涙に濡らした、九つくらいの少年が乗っていた。それは、クジミチョーフの甥のエゴールシカであった。伯父の許しと、神父フリストフォールの祝福を得て、彼はいま中学へはいるためにどこかへ出かけて行くのだった。十等官の未亡人で、クジミチョーフの妹だった彼の母のオリガ・イワーノヴナは、教育のある人や身分のある社会が好きだったので、羊毛を売りに出かける兄に、エゴールシカを同行して、中学へ入れてくれるようにと、たって頼んだのであった。それで今もこの少年は、自分はなんのためにどこへ行くとも知らず、デニースカと並んで馭者台に坐り、転げ落ちないようにしっかり馭者の肘につかまったまま、七輪の上の茶器のように、ことこと跳びあがっていた。馬車の速力から、彼の赤いシャツは背中で風船のようにふくれ、孔雀の羽根のついた新しい馭者ふうの帽子は、のべつ後頭の方へずり落ちていた。彼は、自分をこの上ない不幸な人間のように感じて、泣きたくてならないのであった。
 馬車が監獄の傍を通った時、エゴールシカは、高い白塀のあたりを静かに歩いている哨兵や、小さな格子まどや、屋上に輝いている十字架などを眺めて、一週間前、カザンの聖母祭の日に、母と一緒に監獄の教会へ、教会の記念祭に行ったことを思い出した。なおその前の復活祭にも、彼は下婢のリュドミーラやデニースカと一緒に監獄へ行き、囚徒たちに復活祭のパンや、玉子や、ピローグや、牛の焙肉《あぶりにく》などを届けてやった。囚人たちは礼をいって、十字架を切った。その中のひとりはエゴールシカに、自分で作った錫《すず》の飾りボタンをくれたりした。
 少年は、馴染の深い場所にじっと見入っていたが、憎らしい馬車はその傍を駈け抜けて、忽ちすべてを後にしてしまった。監獄の次には、真黒に煤けた幾軒もの鍛冶屋がちらつき、その次には、ごろた石の塀に囲まれた、青々とした、気持のいい墓地が、閃《ひらめ》き過ぎた。塀の中からは、真白な十字架や墓碑が朗らかに顔をのぞけていたが、それは桜の青葉の中に隠れていて、遠目には白い斑点のように思われた。エゴールシカは、桜の花の咲く頃には、これらの白い斑点が、桜の花とまざり合って、白い海のようになることを思い出した。が、桜の実が熟する頃は、白い墓碑や十字架は、血のように鮮紅な点々で撒き散らされた。塀の向うの桜の木の下には、日となく夜となく、エゴールシカの父と祖母のジナイーダ・ダニーロヴナとが眠っていた。祖母が死んだ時、人々は彼女を細長い棺へ納《い》れて、なかなか閉じようとしなかったその眼を、ふたつの五カペイカ銅貨で隠してやった。その死がくるまでは、彼女は生きていて、市場からよく、罌粟《けし》をふりかけた柔らかい輪形パンを買って来てくれたものだったが、今では彼女は寝てばかりいる、寝てばかりいる……

……冒頭より

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