「大地(1・2・3部)

パール・バック/大久保康雄訳

(第1部)ドットブック 316KB/テキストファイル 246KB

(第2部)ドットブック 422KB/テキストファイル 364KB

(第3部)ドットブック 395KB/テキストファイル 335KB

各700円

貧しい農夫、王龍(ワンルン)と阿藍(オーラン)一家の暮らしにようやく明るさが訪れようとしたとき、飢饉が襲う。二人はやむなく町へ出、それぞれ車夫と乞食になって糊口をしのぐ。そのうちに二人は、折からの暴動の勃発によって思いがけぬ大金を手にする。一家は再び故郷に帰り、没落した地主から土地を買い入れる。さいわい引き続く豊作にめぐまれて王龍は大地主にまでなるが、余裕ができると女遊びに走り、ついには妾を家に入れる。阿藍はただ黙々と働きつづける。子供たちは大きくなり、一家の暮らしはしだいに変容し、やがて二人にも死が(第一部)。遺産を受け継いだ三人の息子たちはそれぞれの道を歩む。長男は町に出て贅沢な暮らしにふける、次男は金儲けに邁進する、三男は軍人になり軍閥を夢み、ついには将軍にまで出世する。土地は次々と手放される。新しい時代が到来し、三代目の息子たちは、また父親たちとは異なる道を歩み始める(第二部)。三男の息子で内省的な性格の王元(ワンユアン)は士官学校に進むが、父の期待を裏切って革命軍に身を投じる。そしてアメリカに留学するが、あきたらず帰国したとき、すでにそこには国民政府が樹立されていた。革命とロマンスの渦中に翻弄され苦闘する新世代の孫たち(第三部)
◆ 清朝末期から中華民国成立までの時代を背景に、父子三代にわたる王一家の変遷をたどる家族物語。1931年、第一部の「大地」は出版と同時にベストセラーとなりピューリッツァー賞を受賞、各国語に訳された。

パール・バック(1892〜1973) 中国で活動していたアメリカ人宣教師の娘。17歳のときアメリカのランドルフ・メイコン大学に入学するまで中国に育ったので、中国語を母語同様に解した。大学卒業後は再び中国にもどり、中国の農業経済を専攻するロッシングと結婚、宣教師の仕事をしながら南京大学で英文学を講じた。このころから社会評論を書きはじめたが、1931年に小説「大地」を発表、世界的に一躍注目され、以後、作家・評論家・社会運動家として生きた。34年以降はアメリカに住み、混血児を収容する施設を設立するなど、東西の理解と女権拡張のために力をつくした。「大地」は続編の「息子たち」「分裂した家」と三部作をなし、全体はのちに「大地の家」(The Good Earth)としてまとめられた。この全体が日本では「大地」と名づけられている。代表作に「母」「郷土」のほか、「水滸伝」の英訳も有名。

立ち読みフロア
 王龍《ワンルン》が結婚する日であった。周囲にとばりをおろしたまっ暗な寝床のなかで目をさましたとき、彼には、この夜明けが、なぜいつもとちがうように思えるのか最初わからなかった。家のなかは静まりかえっていて、中の一間《ひとま》をへだてた向こう側の年老いた父親の部屋から、弱々しい、息づかいのせわしい咳《せき》が聞こえるばかりだ。毎朝、最初に聞こえるのは、この老人の咳だった。王龍は、いつもならそれを聞き流し、横になったままで、その咳が近づいてくるときと、老父の部屋の扉の蝶番《ちょうつがい》がきしむ音を聞いたときしか動かなかった。
 しかし、けさはそれまで待っていなかった。とび起きて、寝床のとばりをわきへ押しやった。まだ暗くて、ほんのり赤味を帯びた夜明けである。窓がわりの小さな四角い孔《あな》に貼《は》ってある紙が破けて、ひらひらしているその紙の隙間《すきま》から、ほの明るい赤銅《しゃくどう》色の空が、ちらとのぞかれた。彼は孔《あな》のところへ行って紙を引きはがした。
「春だもの、もうこんなものはいらねえや」彼はつぶやいた。
 せめてきょうだけは家をきれいに見せたいものだと思うが、しかし口に出してそう言うのは、はずかしい。その孔は、どうにか手が出せるくらいの大きさなので、彼は手を突き出して戸外の空気にふれてみた。やわらかなそよ風が、東からなごやかに吹いてくる。おだやかな、ささやくような、雨気をふくんだ風である。吉兆だ。畑がみのるには雨が必要なのだ。ここ数日間雨がなかったし、きょうもおそらく降らないだろう。しかし、もしこの風がつづいたら、二、三日うちには水が拝めるだろう。よかった。きのう彼は、こう日光が強くぎらぎらと照りつづけたら、小麦は穂がつかないだろう、と父親に話したものである。そしてきょうは、天が彼の幸福を祈ってこの日を選んだかのようだ。大地は実を結ぶだろう。
 彼は野良《のら》着の青いズボンをはき、青い木綿《もめん》の帯を腰に巻きつけながら、急いで中の部屋へはいって行った。からだを洗う湯をわかすまでは上半身は裸のままだ。彼は母屋《おもや》にもたれかかっている差掛《さしかけ》小屋へはいっていった。そこが台所になっているのである。その薄暗がりの向こうにあるとなりの戸口の隅《すみ》から、牡牛《おうし》が頭を突き出し、彼に向かって低く鈍重な声で鳴いた。台所は母屋と同じように、自分の畑の土を固めた泥レンガで大きく四角に築かれており、屋根は自分たちのつくった小麦のわらで葺《ふ》いてある。カマドもやはり、いまは長年の煮炊《た》きで焼き固められまっ黒にすすけているが、祖父が若いころ自分の土地の土でつくったものである。その土のカマドには深い丸い鉄の大鍋《なべ》がかかっていた。
 彼はそばにある土甕《がめ》から、ひょうたんのヒシャクで水を汲《く》み入れ、この大鍋を半分ほど満たした。水は貴重なので注意深く汲み入れた。それから、しばらくためらった後、とつぜん土甕《がめ》をもち上げて、水を全部、大鍋にあけてしまった。きょうこそ全身を洗うつもりなのだ。母親のひざに抱かれていた子供のときから以後は、だれも彼のからだを見たものはない。きょうは見られるだろう。きれいに洗うつもりなのだ。
 彼はカマドの向こうへまわって行って、台所の隅《すみ》に立てかけてある乾いた草の葉や茎を一つかみとってきて、一枚の葉もむだにしないように、たんねんに焚口《たきぐち》につみかさねた。それから古い火打ち石で火を出して、わらにその火を移した。やがて火は燃えあがった。
 こうして火を起こさなければならないのも、けさが最後だろう。六年前に母親が死んでからは、毎朝、彼が火を起こしてきたのである。火をつけて湯をわかし、茶わんに湯を入れて、父親の部屋へもって行く。父親は寝床にすわって咳《せき》をしながら床の上の靴を探している。この六年間、毎朝、老父は朝の咳をしずめるための湯を息子が持ってきてくれるのを待っていたのである。これでやっと父も子も楽になる。女が家へくるのだ。もう王龍は、夏も冬も、二度とふたたび朝早く起きて火を起こさなくてもすむ。彼は寝床で横になって待っていられるのだ。彼のところへも湯を運んできてくれるだろう。そして、もし豊作だったら、湯のなかへ茶の葉を浮かせることもできるだろう。数年前にそうだったように。
 そして、女が年老いるころには、子供たちが火を起こすだろう。女は王龍のために、たくさん子供を生むにちがいない。この家の三つの部屋の内外《うちそと》をかけまわる子供たちのことを考えると、その考えにうたれたように彼は手を休めた。母親が死んでからは家は半ばあいてしまって、つねづね三つの部屋でも多すぎるように思えていた。家族の多い親戚《しんせき》が押しかけてくるのを、彼らは、いつもことわりつづけてきた――際限なく子供ばかり生んでいる叔父《おじ》などは、言葉巧みにこんなことを言ったものである。
「やもめふたりで、こんなにたくさんの部屋は必要ねえだろうが。父子《おやこ》いっしょじゃ寝られねえのかね。若いもんのからだのぬくみは、年寄りの咳《せき》には、たいへんいいはずだが」
 しかし父親は、いつも答えたものである。「わしは孫のために寝床をとっとくのさ。孫が、わしの年老いた骨をぬくめてくれるだろうて」
 いま、その孫の生まれるときがきたのだ。それも、たくさんの孫が……壁ぎわにも中の部屋にも孫どもの寝床がならぶだろう。家は寝床でいっぱいになるだろう。王龍が、この半分は空家同然の家が寝床でいっぱいになることを空想しているあいだに、カマドの火は消えて、大鍋の湯は冷《さ》めはじめた。上着を引っかけてボタンもかけぬ老人の姿が影のように戸口にあらわれた。老人は咳をし、痰《たん》をはき、息をぜいぜいいわせている。
「どうしたんだ、わしの胸をあたためる湯は、まだ沸かねえのか」
 王龍は、びっくりして父をみつめ、やっとわれに返って、はずかしくなった。
「焚物《たきもの》がしめっとるで」彼はカマドのうしろからつぶやいた。「しめっぽい風が……」
 老人は、ひっきりなしに苦しそうに咳をしている。湯が沸くまでは、とまりそうもない。王龍は茶わんに湯をつぎ、すこし間をおいてから、カマドの上の棚にのっている光沢のある壼をあけ、乾いて巻きあがっている茶の葉をすこしつまみ出して湯のなかに落とした。老人の目が強欲そうに開き、すぐに叱言《こごと》を言いはじめた。
「なんでそんなむだなことをするだ。茶を飲むなんて銀を食うのとおなじことだぞ」
「きょうは特別だよ」王龍は、ちょっと笑って答えた。「飲みなよ。気分がよくなるだ」
 老人は、ぶつぶつ言いながら、しなびて節くれだった指で茶わんを握りしめたが、もったいなくて飲めないらしく、湯の表面で巻きあがった茶の葉がひろがるのを、いつまでもみつめていた。
「冷《さ》めちまうよ」王龍が言った。
「なるほど――そうだな」はっとして老人は熱い茶をすすりはじめた。おいしい食べものをもらった子供のように、すっかり満足そうであった。しかし、王龍が大鍋の湯を惜しげもなく深い木桶《きおけ》へあけるのを見のがさなかった。彼は顔をあげて息子を見た。
「畑に水をやらにゃいけねえだな、よく実るようにな」と老人は唐突《とうとつ》に言った。
 王龍は黙って最後の一滴まで桶にうつした。
「その湯、どうするだ」老父がどなった。
「正月からおれはまるでからだを洗ってねえだよ」と王龍は低い声で答えた。
 嫁に見せるためにからだをきれいにしたいのだ、と父親に言うのは恥ずかしかった。彼は急いで台所を出て桶を自分の部屋へ運びこんだ。入り口の建てつけがわるいので、戸がはずれかかっていて、きちんとしまらなかった。老人は、あぶない足どりで中の部屋にはいってきて、戸の隙間に口をあてて、わめき立てた。
「初手《しょて》から嫁にこんなふうにさせちゃよくねえだ――朝の湯には茶の葉を入れるし、おまけに洗うといえばからだ全部洗うなんて」
「たった一日だけだよ」と王龍は大声でどなり返し、それからつけ加えた。「すんだら水は土にくれてやるだ。そしたら、まるっきりむだにもなるめえ」
 老人は黙ってしまった。王龍は帯をとき、着物をぬいだ。小さな孔から四角に流れこむ明りの下で、小さい手ぬぐいを熱湯にひたしてしぼり、黒いやせたからだを力を入れてこすった。空気は暖かいと思っていたが、からだが濡れると寒さを感じて、手ぬぐいを、ひんぱんに湯に入れたり出したりしながら手早くこすっているうちに、全身から、かすかに湯気が立ってきた。それがすむと母親が昔使っていた箱のところへ行って、青い綿布の新しい着物をとり出した。綿のはいった冬物でないと、きょうはすこし寒いかもしれないが、からだがきれいになってみると、急に古い綿入れを着るのがいやになったのだ。いままで着ていた綿入れは皮が破れているし、よごれてもおり、孔から灰色の古綿がはみ出しているのだ。妻となる女と、はじめて顔を合わせるのに、綿がはみ出ているようなものは着ていたくなかった。いずれは彼女が洗濯もし、つくろってもくれるだろうが、最初の日だけは、どうもまずい。
 彼は青い木綿の上着を着、ズボンの上に同じ布地の長衫《チャンサ》をつけた――一年に十日かそこら、祭日にだけしか着ない、唯一の長い着物である。それから背中に垂《た》れている辮髪《べんぱつ》を手早くほどき、すわりの悪い小机の引出しから木櫛《きぐし》をとり出して、髪をすきはじめた。
 父親が、ふたたび近づいてきて、戸の隙間に口をつけた。
「きょうは何も食わせてもらえねえのか」と老人は不平そうに言った。「わしみたいな年になると、朝、食うものを食わねえうちは、骨がまるで氷みてえになってるだよ」
「いま行くよ」王龍は手早く、なめらかに髪をくしけずり、それを、ふさのある黒い絹ひものように編みあげながら答えた。
 そして、すぐに長衫《チャンサ》を脱ぎ、辮髪を頭に巻きつけてから、桶をかかえて外へ出た。朝食のことを、まるで忘れていたのだ。トウモロコシの粉を湯がいて、それを父親には食べさせよう。自分は何も食べたくない。敷居のところまでよろよろと桶を運び、戸口の地面に湯をあけた。そのとき彼は、からだを洗うために鍋の湯を全部使ってしまったことに気がついた。また火を起こさなければならない。父親に対して、むかむかと腹が立ってきた。
(あの老いぼれは食うことと飲むことしか考えてやしないんだ)と、カマドの焚口《たきぐち》のところでつぶやいたが、聞こえるような声では何も言わなかった。老人に食事の世話をしてやるのも、けさが最後だ。戸口の近くにある井戸から、ほんのすこしの水を桶に汲んできて大鍋に入れた。すぐ沸き立った。トウモロコシの粉を入れてかきまぜ、それを老父のところへ持って行った。
「晩にゃ米をたくだでな、おとっつぁん」と彼は言った。「だから、けさはトウモロコシだよ」
「米は、ザルにいくらも残ってねえぞ」と老人は中の部屋のテーブルの前にすわり、箸《はし》で濃い黄いろいカユをかきまわしながら言った。
「そんなら、春の祭りにゃ、すこし食うのをへらすことにしよう」と王龍が言った。しかし老人は聞いていなかった。騒々しく音を立てて、カユをすすっていた。
 王龍は自分の部屋にはいり、もういちど青い長衫《チャンサ》を着て、辮髪を垂らした。剃《そ》りあげた額《ひたい》から頬《ほお》のあたりをなでてみた。新しく剃らせたほうがよくはないかな。まだ太陽は上っていない。妻になる女が待っている家に行く前に、床屋のある通りへまわって頭を剃らせる時間は十分ある。
 金さえあれば剃らせようと思った。腹巻きから、灰色の布地でつくった小さなあぶらじみた財布を引っぱり出して、金をかぞえてみた。銀貨が六枚と銅貨が二つかみほどある。父親にはまだ話してないが、今夜は親しい人々を夕食に招いてある。叔父の子の従弟《いとこ》と、それに父親のために叔父と、それから近所に住んでいる三人の農夫にきてもらうことになっているのだ。町から豚肉と小魚と栗《くり》をすこしばかり買ってくるつもりである。できれば南からきたタケノコや牛肉も買って、自分の畑からとれたキャベツといっしょに煮たいとも思うが、しかしこれは、油としょうゆを買ったあとで金が残っていたらの話である。頭を剃らせたら、たぶん牛肉は買えなくなるだろう。しかし、まあいい、頭を剃らせよう、と彼は急に決心した。
 老人には、なにも言わずに、彼は早朝の戸外へ出た。暗紅色の暁だが、太陽は地平線の雲をやぶって、小麦や大麦におりた露に光っていた。百姓の習性から王龍はすぐに他のことを忘れ、立ちどまって穂先を調べてみた。麦はまだ実がついていない。雨を待ち望んでいるのだ。彼は大気のにおいをかぎ、心配そうに空をながめた。暗い雲、重たげな風、雨はそこにあるのだ。彼は線香を買って、地神の小さな祠《ほこら》にそれをささげようと思った。こんな日には神様にすがりたくなるのだった。
 畑のなかの小道づたいに彼は急いで歩いて行った。近くの町の灰色の城壁がつらなっていた。その城壁の楼門をはいると、黄《ホワン》家という大地主の屋敷があって、そこに彼の嫁となる女が子供のときから奴隷として使われているのである。世間ではよく「大家の女奴隷と結婚するよりは独身でいたほうがいい」などと言っている。しかし彼が父親に向かって「おれはいつまでも女房を持てねえのか」ときいたとき、父親は言ったものである。「このごろのように時世が悪くなってくると、婚礼にも、たいへんな金がかかるし、どんな女だって、いっしょになる前に金の指輪や絹の着物をほしがるだで、貧乏人は奴隷をもらうより仕方がねえだよ」
 そして父親は思いきって自分で黄家へ出かけて行って、あまっている女奴隷はいないだろうかと頼んでみたのである。
「あんまり若くねえ女奴隷で、何よりもべっぴんでねえ女を」と老人は言った。
 王龍は、べっぴんであってはいけない、というのが不満だった。他人が祝ってくれるような美しい女を女房にできたらどんなにいいだろう、と思ったのだ。父親は不平そうな彼の顔つきを見てどなりつけた。
「べっぴんの嫁なんぞもらってどうしようというだ。野良で働きながら家の仕事もすれば子供も生む、そういう女でなくちゃいけねえ。べっぴんの嫁で、そんなことができるか。そういう女は着るものと顔のことしか考えてやしねえだ。この家には、べっぴんはごめんだ。わしらは百姓なんだ。それによ、大家のきれいな女奴隷に生娘《きむすめ》がいるなんて聞いたこともねえだ。若旦那がたが、みんな手をつけちまうだ。べっぴんの百番目の男になるよりも、醜女《しこめ》でも最初の男になるほうがいいじゃねえか。考えてみなよ、きれいな女が、金持ちの若旦那のやわらかい手と同じように、土百姓のおまえの手をよろこぶと思うか。女を慰みものにする連中の金色の肌《はだ》と同じように、おまえの陽《ひ》やけした面《つら》を好くと思うか」
 王龍だって父親の言うことは百も承知だった。それでも返事をする前に感情の高ぶるのをおさえきれなかった。やがて彼は乱暴に言った。
「いくらなんでも、あばた《ヽヽヽ》とみつ口だけはごめんだぜ」
「どんなのがくるか、まあ、もらってからのことさ」と父親は答えた。
 とにかくその女はあばた《ヽヽヽ》でもみつ口でもなかった。それだけはたしかだが、それ以上は何もわからなかった。彼と父親は金メッキした銀の指輪を二つと銀の耳輪を買い、父親がそれを婚約のしるしとして女の所有者の家までとどけた。それ以上は、きょう行けば女をもらえるということ以外、妻となるべき女については何も知らないのである。
 彼は冷たく暗い町の楼門にはいった。水を運ぶ人夫が手押し車に大きな水桶を積んで一日じゅうここを出たりはいったりして、桶から石畳の上に水をこぼすので、土とレンガでできている厚い壁の楼門のトンネルは、いつも濡れていて涼しかった。夏の日でもひんやりしていた。だから瓜《うり》の行商人は、ここの石の上にくだものを並べて、しめっぽい冷気のなかで瓜を割って食べさせるのであった。まだ季節が早すぎるので瓜商人は出ていないが、小さなかたい青い桃の籠《かご》が壁にそってならべられ、商人が叫んでいた。
「春の初物だよ――はしりの桃だよ。さあ買った。さあ食った。こいつを食って腹のなかの冬の毒気を追っ払ってくれ!」
 王龍はひとりごとを言った。
(もし女が桃が好きなら、帰りに手に一杯買ってやろう)
 帰りにこの門をくぐるとき、自分のうしろに女がついてくるということが、どうしても実感としてぴんとこなかった。
 楼門をはいって右に折れ、ちょっと行くと、床屋ばかりの通りである。まだ早いので、あまり人はいない。早朝、市で野菜類を売るために夜のうちに荷を運んできて、これから野良の仕事に帰ろうとする農夫がすこしいるだけだ。彼らは籠の上にうつ伏せになって、ふるえながら眠るのである。いま籠はからになって彼らの足もとにおいてあった。王龍は、きょうはだれからも冗談なんぞ言われたくないので、彼らにみつからぬように避けて通った。この通りには、ずっと向こうの端まで、腰かけを前において床屋がならんでいた。王龍は一ばん遠くにある腰かけに腰をおろして、隣の男と立ち話をしている床屋に合図した。床屋は、すぐにやってきて、火鉢《ひばち》にかけてある湯沸かしからシンチュウの鉢に手早く湯を注ぎはじめた。
「全部剃《そ》りますかね?」と職業的な口調で言った。
「頭と顔をたのむ」と王龍が答えた。
「耳と鼻の孔の掃除は?」床屋がたずねた。
「そうすると、いくら余分に出せばいいだかね?」と王龍は用心深くききかえした。
「四銭だね」黒い小布を熱湯につけて、それをしぼりながらー床屋が答えた。
「二銭にしてくれ」王龍が言った。
「それじゃ耳と鼻の孔は片方だけですぜ」床屋は即座に言いかえした。
「耳と鼻の孔は、どっち側のをやりますかね?」そう言いながら彼は隣の床屋に顔をしかめて見せた。隣の男は、げらげら笑いだした。王龍は、こいつはえらいいたずら好きの男につかまったと思った。しかし彼は、つねづね町の人たちにたいしては、なんということもなく劣等感を感じていた。だから、相手が、ただの床屋で、最下級の人間にすぎないと思っても、やはりひけめを感じて、つい早口に言ってしまったのである。
「どっち側でもいいですだ――どっち側でも――」
 そして彼は、床屋がせっけんを塗ったり、こすったり、剃ったりするがままになっていた。この床屋は冗談こそ言うが気前のいい男なので、特別の料金もとりもせずに、じょうずに肩をたたいてくれ、背中の筋肉をほぐしてくれた。彼は前額部に剃刀《かみそり》をあてながら王龍に話しかけた。
「辮髪を切っちまったら、いい男前になりますぜ。辮髪を切るのが最新流行でしてね」
 頭の上にまるく残っている辮髪のそばで床屋が剃刀をひらひらさせるので、王龍は悲鳴をあげた。
「おやじに聞いてからでなくちゃ切るわけにゃいかねえだよ」
 床屋は笑って、そこだけまるく残して剃ってくれた。
 それがすんで、床屋のしなびた水だらけの手に、料金をかぞえてわたすとき、王龍は、一瞬ぎくりとした。こんなにたくさんとられるのだ! しかし、ふたたび往来を歩きながら剃りたての皮膚にさわやかな風を感じると、彼は、ひとりごとを言った。
「たった一度のことだで」
 それから彼は市場へ行って、豚肉を百五十匁《もんめ》ほど買い、肉屋が乾いた蓮《はす》の葉でそれを包むのを見まもっていたが、やがてちょっとためらいながら牛肉を五十匁ばかり買った。葉っぱの上でゼリーのようにふるえている豆腐まで全部買いととのえてから、ローソク屋へ行って、線香を二束買った。それから、ひどくおずおずと、黄《ホワン》家のほうに歩を向けた。

……《第一部》冒頭

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