「桜の園」

チェーホフ作/中村白葉訳

ドットブック版 84KB/テキストファイル 54KB

400円

南ロシアの地主であるラネーフスカヤ夫人は夫と死別後、愛人とパリで暮らしていたが、愛人に裏切られ、経済的にもいきづまって、古い領地に帰ってくる。だが、その領地も抵当に入っており、破産は目前である。美しい「桜の園」を舞台に、旧地主・貴族階級の没落とそれに取ってかわる新興ブルジョワジーの台頭を描く。チェーホフ四大戯曲の中でももっとも完璧な作品としてしばしば上演される名作。

チェーホフ(1860〜1904)ロシアの作家。モスクワ大学医学部を卒業し、医師のかたわら、最初は多数のユーモア短編小説を書いたが、20代の後半から本格的な文学を志すようになった。中期の作品には、社会的問題を取り上げ、当時の反動政治のもとであえぐ知識階級の絶望と消極性と卑劣さをあばく作品が多い。肺結核とたたかいながら、ヤルタに転地し、晩年に至る後期の作品は、世紀末の停滞した空気の中で埋没していく人間への批判と、真の人生を見出そうとする人々がテーマとなっている。代表作に『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の四大戯曲のほか、『六号室』『中二階のある家』『決闘』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』などがある。44歳で亡くなった。

立ち読みフロア
ラネーフスカヤ夫人の領地における出来事。

◆第一幕
 今なおこども部屋とよばれている一室。ドアの一つはアーニャの部屋へ通じている。夜明け前、じき太陽の昇りそうなけはい。もう五月で、桜の花が咲いているが、外は朝寒でひえびえする。部屋の窓々はしまっている。ドゥニャーシャ、蝋燭(ろうそく)を手に、ロパーヒン書物を手にして登場。
 
【ロパーヒン】 ああ、おかげでやっと汽車がついた。何時かね?
【ドゥニャーシャ】 じき二時になりますわ。(蝋燭を吹き消す)もう明るうございますもの。
【ロパーヒン】 いったい汽車は、どれくらい遅れたのかね? すくなくとも、二時間はたしかだな。(あくびをし、伸びをする)おれもだいぶやきがまわって、いい馬鹿をみたものさ! 停車場でお出迎えするつもりで、わざわざここまでやってきながら、つい寝すごしてしまうなんてね……腰掛けているうちにうっかり眠ってしまったやつさ。くそいまいましい……おまえでも起こしてくれたらよかったんだ。
【ドゥニャーシャ】 わたしはまた、あなたはもうお出かけになったものとばかり思っていましたのよ。(聞き耳をたてる)おや、もうお着きになったようだわ。
【ロパーヒン】 (耳をすます)いや、ちがうよ……荷物を受けとったり、なにかと手間どるからね……(間)リュボーフィ・アンドレーエヴナは、外国で五年も暮らしてこられたんだから、今ではどんなになっていられるか……なんにしてもいい人だて、あの方はなあ。気さくで、さっぱりした気性でさ。忘れもしない、おれがまだ十五、六の小僧だった時分、死んだおれの親父(おやじ)が……親父はその時分、村で小さな店をやっていたのだが……おれの横っ面(つら)を拳固でなぐりとばしたので、ぽとぽと鼻血が出たことがある……そのときおれたちは、どうしてかこのお屋敷へやってきたんだ。親父は一杯飲んでいたんだね。するとリュボーフィ・アンドレーエヴナがさ、今でもよく覚えてるが、その時分はまだ若い、とてもほっそりとした方だったがね、おれを洗面台のところへつれて行って、そうだ、この部屋だよ、このこども部屋だよ、そして「泣くんじゃないよ、小さいお百姓や、婚礼までには直るからね」っておっしゃるのさ……(間)小さいお百姓か……いやまったく、おれの親父は百姓だったよ。おれは今このとおり、白いチョッキに黄色い靴なんかはいてるがね。じつは雑魚(ざこ)のととまじりさ……やっと金持ちの仲間入りして、金だけはうんともってるが、考えてみりゃ、百姓はやっばり百姓さ……(書物のページをめくる)いまもこの本を読んでたんだが、なんにもわかりゃしなかった。読みながら寝てしまったのさ(間)
【ドゥニャーシャ】 ゆうべは、犬たちも夜どおし寝ませんでしたわ。ご主人さまのお帰りを感づいたんでしょうね。
【ロパーヒン】 おまえどうしたんだい、ドゥニャーシャ、そんなに……
【ドゥニャーシャ】 手がふるえるんですのよ。わたし、いまにも倒れそうですわ。
【ロパーヒン】 おまえはどうもちっと優しすぎるね、ドゥニャーシャ。それになりもまるでお嬢さんだし、髪の結いかただってそうだ。それではいかんよ。分を知らなきゃいかんよ。
 
 エピホードフ 花束を手にして登場、背広を着、ぴかぴかにみがいた、ひどくきゅっきゅっと鳴る長靴をはいている。はいってきながら、花束をとりおとす。
 
【エピホードフ】 (花束を拾う)これはね、いま園丁がよこしたんだよ、食堂へおくようにってね。(ドゥニャーシャに花束をわたす)
【ロパーヒン】 そして、おれにクワス(裸麦の粉と麦芽で醸造するロシア独特の薄いビール)を持ってきてくれること。
【ドゥニャーシャ】 かしこまりました。(退場)
【エピホードフ】 今はちょうど朝寒で、零下三度です、それだのに、桜は満開なんですからね。どうもロシアの気候はいいといえませんな。(嘆息する)いえませんな。なにしろ、ロシアの気候ときたら、ちょうどころあいっていうわけにゃゆかないんですからね。ところで、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、ついでにちょっと申し上げることをお許し願いたいのですが、わたしは、おととい長靴を買ったんですがね、まったくどうも、とても我慢がならないほどきゅうきゅう鳴りやがるんですよ。いったいなにを塗ったらよろしいんでしょうねえ? 
【ロパーヒン】 あっちへ行ってくれ。うるさいよ。
【エピホードフ】 わたしにはどうも毎日なにかしら不幸がおこるんですよ。でも、わたしは不平は言いません、慣れっこになっているので、かえってにこにこしているくらいです。
 
 ドゥニャーシャ登場。ロパーヒンにクワスを差しだす。
 
【エピホードフ】 じゃあまいりましょう。(椅子にぶつかってそれを倒す)ほら、このとおり……(まるで勝ちほこったように)ごらんください、失礼ないい分ですが、まずこういったありさまです……いやまったく、驚くほかはありません!(退場)
【ドゥニャーシャ】 あのねえ、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、エピホードフがわたしに結婚を申し込んだんですのよ。
【ロパーヒン】 ほほう!
【ドゥニャーシャ】 わたしもうどうしていいかわかりませんの……あの人はおとなしい人ですけれど、ただときどき、とんとわけのわからないことを言い出すんですもの。なかなか上手に、面白そうに話すんですけれど、ただどうにもわからないんですのよ。わたしにも、あの人はいくらか気に入ってるような気もしていますの。ところがあの人ときたら、まるでもうわたしに夢中なんですわ。あの人不仕合わせな人でしてね、毎日なにかかにか、きっとおこるんですのよ。それで、うちではみんながあの人のことを……二十二の不仕合わせって言って、からかってるんですの……
【ロパーヒン】 (耳を澄ます)そら、どうやらお着きのようだ……
【ドゥニャーシャ】 お着きですわ! まあわたしどうしたんでしょうね……からだじゅう冷たくなってしまいましたわ。
【ロパーヒン】 ほんとうにお着きだ。さあ、お迎いに出よう。奥さんはおれがおわかりになるかしらん? なにしろ五年会わないんだからな。
【ドゥニャーシャ】 (わくわくして)わたしもう倒れそうだ……ああ、倒れそうだ!


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