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「チャタレイ夫人の恋人」 D・H・ロレンス/飯島淳秀訳 840円 |
| 従軍して負傷し下半身麻痺におちいり車椅子生活を余儀なくされた夫をもつコニーは、献身的に夫の世話を焼くが、性的な充足感を経験することのない、どこか満たされない上流階級の女性だった。彼女は夫の屋敷に付属する森で猟場番として働くメラーズという男を知る。知的なところもあるこの男に好意をもったコニーは、性的な関係をむすぶにいたる。それはコニーにとって未知の世界をひらく扉であった……ロレンスがこの作品の題名として考えた一つはTenderness(優しさ)であったという。性的な情報の氾濫する現代にあっても、なお忘れられているものを思い起こさせてくれる名作。
D・H・ロレンス(1885〜1930) 20世紀の英国で最も重要で、最も論議をよんだ作家のひとり。書記、教師をつとめたあとノッティンガム大学にはいり、短編を書き始め、「息子と恋人」で世に認められた。第一次大戦中は妻がドイツ系であったため疑惑と敵意の目でみられ、苦難のときを送った。代表作「虹」「恋する女たち」「翼ある蛇」「チャタレー夫人の恋人」。遍歴のあと、最後はフランスのヴァンスで亡くなった。 |
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| 立ち読みフロア | |
| われわれの時代は本質的にいって、悲劇的な時代である。だから、われわれはそれを悲劇的にとろうとしないのだ。大変動はすでに起こった。われわれはいま廃墟《はいきょ》の中にあって、あらたに小さな住家《すみか》をたて、新しい小さな希望を抱こうとし始めている。相当に困難な仕事だ。いまのところ、未来へ通じる平坦《へいたん》な道は一つもない。だが、われわれはまわり道をし、あるいは障害物をよじ登ってこえてゆく。いくたび災いがふりかかってこようとも、われわれは生きぬかなければならないのだ。 これがおよそコンスタンス・チャタレイのおかれていた境遇であった。大戦は頭上の屋根を崩壊させてしまった。そして、彼女は、人間というものは生きて学ばねばならないのだ、ということをさとった。 彼女はクリフォード・チャタレイと一九一七年に結婚した。それは彼が一か月間の休暇を得て帰国していたときであった。二人は一か月の蜜月を送った。それから彼はフランダースの戦線へもどった。それも六か月後、ほとんど、ずたずたにされて、イギリスに後送されるために出かけたようなものであった。妻のコンスタンスは、そのとき二十三歳、彼は二十九歳であった。 彼の生命への執着《しゅうちゃく》は驚異的であった。彼は死なず、ばらばらに引きさかれた体も、しだいに癒着《ゆちゃく》しそうであった。二年間、彼は医師の手にゆだねられていた。そこで、治癒《ちゆ》を宣言され、再び生活にたち返ることができたが、下半身、腰から下は、永久に麻痺《まひ》したままとなった。 これは一九二〇年のことである。クリフォードとコンスタンスの二人は、チャタレイ家の在所ラグビイ邸へ帰った。父はすでになく、いまではクリフォードが准男爵《じゅんだんしゃく》サー・クリフォードであり、コンスタンスはレイディ・チャタレイであった。二人はこのいささか世間からはなれたチャタレイ家の邸《やしき》に住んで、不足がちな収入で暮らしをたて、結婚生活を送ることになった。クリフォードには姉が一人あったが、家を出ていた。ほかに近い親類はいなかった。兄は大戦で戦死していた。永久に不具の身となり、生涯、子供をもつ能力のないことを知りつつ、クリフォードは自分にできる間は、チャタレイ家の名をうもらせまいと、この煤煙《ばいえん》にけむる中部地方の故郷に帰ってきたのであった。 彼は意気銷沈《しょうちん》しきっているわけではなかった。車つき椅子《いす》に乗って、自分で乗りまわすこともできれば、小型モーターのついた車椅子ももっていたので、ゆっくりと庭をまわり、わざと気にかけていないようなふりはしているものの、じつは大いに誇りにしている、鬱蒼《うっそう》たる見事な荘園に乗りいれたりすることも、できるのだった。 非常な苦しみをへてきたあまり、苦しみを苦しみとして受けいれる力が、ある程度なくなってしまっていた。血色のよい、健康そうな顔と、薄青い、挑《いど》むような明るい目をしていて、妙に明朗で、ほとんど快活なといってもいいくらいであった。肩幅《かたはば》はひろくてがっちりしていて、手はたくましかった。着ているものは高価なもので、しゃれたボンド・ストリートもののネクタイをしていた。にもかかわらず、顔には、警戒的な表情、不具者のそれとない空虚さがあった。 あやうく生命を失うところだったので、残っているものが、彼にとってはこの上もなく貴重なのであった。焦躁《しょうそう》にみちた目の輝きを見ても、あれだけの打撃をうけて、自分がなおも生きていることを、彼が誇りとしていることは、明らかであった。だが、あまりにもひどい傷をうけたため、彼の中にあるものが失われ、彼の感情の一部が死滅してしまっていた。あるものは、無感覚の空白であった。 妻のコンスタンスは、血色のよい、ひなびた顔つきの女で、やわらかい、褐色《かっしょく》の髪と、がっしりした体つきをしていて、動作はにぶかったが、なみなみならぬ精力にみちていた。大きな、ものに驚いたようなひとみと、やわらかい、おだやかな声をもっていて、たったいま、生れ故郷の村から出てきたばかりといったようすであった。しかし事実は全然ちがっていた。父というのは、かつては人に知られた王立美術院会員の老マルカム・リード卿《きょう》であった。母は、全盛期の、いささかラファエル前派的な、教養あるフェビアン協会の一員であった。芸術家たちと、教養ある社会主義者たちとの間にあって、コンスタンスと姉のヒルダは、審美的《しんびてき》に反因襲的ともいえる育て方を受けた。姉妹は芸術的な空気をすうために、パリやフィレンツェやローマにつれてゆかれたし、また他の方面では、ハーグやベルリンへつれてゆかれて、発言者がすべて洗練された言葉で演説し、聴衆も一人として恥じいることもないような、大きな社会主義者の大会に出席したものだった。 そこで、二人の娘は小さいときから、芸術にだろうと理想的政治にだろうと、びくともしなくなっていた。それらは二人にとっては、あたりまえの雰囲気だったのである。彼女らは世界主義者《コスモポリタン》であると同時に、地方主義者であり、純粋な社会的理想にふさわしい芸術の世界主義的地方主義をもっていた。 彼女らは十五歳になると、いろいろなことの中でも特に音楽を修業するために、ドレスデンにやられた。そして、この土地で二人は楽しく暮らした。学生たちにまじって自由に生活し、男性たちと哲学や、社会学や、芸術の問題を論じて、男性たちにひけをとらなかった。女性だっただけに、むしろ立ちまさっていたともいえよう。また、たくましい青年たちと、ギターをひきながら森へもいった。ワンダーフォーゲルの歌をうたった。自由だった。自由! それは偉大な言葉であった。なんの拘束《こうそく》もない世界へ、朝の森へ出かけて、元気にあふれ、すばらしいのどをもった若者たちと、好き勝手に自由にでき、それから――なかんずく――好き勝手なことを自由に話せるのだ。この上もなく重大なのは、話すこと、情熱をこめた会話のやりとりであった。恋愛は単に小さな付属物にすぎなかった。 ヒルダもコンスタンスも、十八になるころには、すでに試験的な恋愛を経験していた。二人が情熱をこめて共に語り、元気よく共に歌い、自由に木蔭でキャンプした相手の青年たちは、もちろん、肉体関係を求めた。娘たちは懐疑的だったが、当時、そのことについては、ずいぶんと論じられていたので、それはさぞや重大なことだろうと察した。しかも青年たちはへり下って熱烈に求めている。若い娘が、どうして女王のごとくなり、みずからの賜物《たまもの》を与えていけないわけがあろう。 こうして、二人は、各自が最も微妙な、へだてのない議論をかわした青年に、自分たちの贈物を与えた。大切なのは議論とか討論であった。恋愛をするとかそれ以上のことは、いわば原始への逆戻りであり、いささか線香花火的なあっけないものにすぎなかった。女というものは、その後では男に対する愛情がさめ、まるで男が自分の秘密や、心の自由を侵害でもしたかのように、いくらか憎しみをもつものである。なぜなら、若い娘としてみれば、もちろん、自分の全的な権威や人生の意義というものは、絶対的な、完全な、純粋な、高貴な自由の達成によって成りたっていたからである。若い娘の人生にとって、ほかにどんな意義があるというのだ。古い、下劣《げれつ》な結びつきとか服従とかを、はらいのけることだけではないか。 しかも、それをいかに感傷化しようとも、こうした性的なことは、最も古代的な、下劣な結びつきとか服従とかいうものの一つなのである。これを讃美した詩人は、たいがい男性であった。女性はもっとましなもの、もっと高いものがあることを、昔から知っていた。そして、現代では、前にもまして決定的にそのことを知っている。女性の美しい、純粋な自由こそは、いかなる性的な愛情よりも、かぎりなく素晴らしいものなのである。ただ一つ不幸なことには、この問題では、男性が女性よりはるかにおくれていることだ。男性は犬のように、性に関することに固執《こしつ》しているのだ。 ……第一章 冒頭より |
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