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第一部 カムラッキー
一
道を渡ろうとして私は一瞬足を止め、三十二番地の住みなれた建物を見あげた。屋根の笠石(かさいし)が一つぬけ落ちていた。入口の上の明りとりの窓は、汚れたガラスにひびが入っていた。階上の部屋の明りが、その窓にななめの光を落していた。メックレンバーク広場のはずれにある、このジョージ王朝風の殺風景な建物に勤めを終えてもどってくる生活をもう何年も続けていたが、それでもこうして見ると、まるではじめてその建物の前に立つような気がした。私は入口のすぐ上の右側の窓が自分の部屋だということを自身に言い聞かせた。あの窓の中に、私の衣類も、本も、書類も、とにかく私の生活を形作っている一切のものがあるのだ。
ところが、それがまるで現実のこととは思えなかった。夢の中にいるようだった。きっと私は、あの知らせにまだぼうっとしていたのだと思う。
会社の連中は何と言うだろう――。それとも、何事もなかったような顔ですましていればいいのだろうか。私は毎朝八時三十五分にこの建物を出て、夕方六時ちょっとすぎに戻ってくるという、ここ何年かの自分の生活を思い出していた。淋しい、不毛な何年かだった。私と一緒に戦争に行った人間は、みなそれぞれ、もう相当の地位についていた。私の場合、戦争中こそ、いくらかはり切っていられたものの、軍隊をはなれてからというものは、何の目的もなく、男の世界の厳しさを味わうこともなく、ただ何となく世の中を流れて来たにすぎないのだ。私はとつぜん、この殺風景な建物の姿が、私自身のくだらない生活をあらわしているような気持がして、いやになった。
自動車のクラクションで私は我(われ)にかえり、あらためて自分がとりつかれている絶望的な倦怠感に気がついた。それと同時に、私は急にあせりを覚えた。自分の生活に何か意味を見つけなくてはならない。それも、早くだ。道を横ぎり、習慣的に鍵をとり出しながら、私は会社の人間には何も知らせないことにしようと心に決めた。誰にも言わない。ただ、休暇をとる、とだけ言ってひっそりと消えればいい。
私は中に入ってドアをしめた。暗いホールに足音がひびいた。
「ウェゼラルさんなの?」
アパートの女主人だった。太っちょで陽気な、おまけにとてつもなくおしゃべりのスコットランド人で、亭主は第一次大戦で片足をなくしてから、およそ仕事と名の付くことは一切やらずに飲んだくれ、海軍からの年金と彼女のやりくりで何とか生活していた。
「そうですよ、ベアードさん」
「今日はずいぶん早いのねえ。午後はおやすみなの?」
「そうなんですよ」
「あらまあ、どういうことなのかしら。今日は旗日(はたび)ってわけじゃなし。それとも、この間話してたみたいな年金保険だとか、放火や事故に会った時の保険なんてのを、もう誰も相手にしなくなったってことなの?」
私は思わずにやりと笑った。本当のことを話したら、この女は何と言うだろう。階段を上がりかけると彼女は私を呼びとめた。「部屋に手紙が二通来てるわ。請求書かなにからしかったわ。それからね、あなたこのところ、どうも元気がないみたいだから、部屋に花を飾っておいてあげたわよ」
「それはどうもご親切に」
「あ、そうそう、忘れるとこだった。あなたに会いたいってお客さんがあったわ。まだ十分もたってないわよ。何だかとっても大事な話ですって。だから、六時にまた来るように言っといたわ。何でも別の用事があって裁判所に行ってくるから、ちょうどいいとか言ってたわよ」
「裁判所?」私は足を止めて彼女を見おろした。「弁護士っていう感じでしたか?」
「そうねえ、そうだったわよ。黒い帽子に書類カバンでしょう。それにこうもりがさを持ってたわ。ウェゼラルさん、あなたまさか、面倒おこしたなんていうんじゃないんでしょうね」
「冗談じゃないですよ」しかし私はめんくらった。「本当に弁護士だったんですね?」
「そうよ、間違いないわ。今度来たら、まっすぐ通してかまわないの? 私、あなたは六時に戻るって言っちゃったのよ。でもね、悪いことじゃないとしたら、何か良いことなんじゃないの……誰か親戚の人が亡くなったとか」
「僕が遺言を書くところなんですよ」私は笑って自分の部屋に上がっていった。
夕焼けの最後の赤い光が広場の木の間に見えていた。私は部屋の明りをつけた。街路の木は赤い光の中に黒い影になっていた。道の向う側はもうすっかり暗くなっていた。私の影がバルコニーに通じるフランス窓からこちらを見上げていた。煉瓦の上に落ちた私自身の気味悪い姿だった。
私はあわててカーテンを引き、部屋の中に戻った。とつぜん、孤独感がおそって来た。この何年というもの、感じたことのない強い孤独感だった。
しばらくの間、私は部屋の中を行ったり来たりしていた。弁護士が一体何の用があって私を訪ねて来るのだろう。私は急に振り返って寝室に入った。私はもう、ほとほと疲れ果てていた。上着を脱いでベッドに体を投げだし、目をつぶった。恐怖と神経の疲れに汗をかきながらじっとしていると、つぶっている目の前を私のこれまでの生活が嘲笑を投げかけながら次々に流れて行った。三十六年。私はその間に何をし、何をやりとげたと言うのだろう。
いつの間にか眠り込んでいたらしい。私はベアード夫人が居間の方から呼ぶ声で目を覚ました。
「ウェゼラルさん、さっきの弁護士さんがみえたわ」
……冒頭より
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