「隊長ブーリバ」

ゴーゴリ/原久一郎訳

ドットブック版 188KB/テキストファイル 153KB

500円

南部ロシアのウクライナが戦乱のちまたであった時代。勇猛果敢なコサックの戦士たちが、祖国と信仰を守るために立ち上がった時代。典型的なコサック魂の権化、隊長ブーリバの峻厳な行動モラルを描く歴史ロマン。

ゴーゴリ(1809〜52) ウクライナの小地主の息子。ペテルブルグへ出て小官吏となり、かたわら民俗的テーマの小品を書いてプーシキンに認められ、作家を志す。コサックを描いた歴史ロマン「隊長ブーリバ」のあとは、小官吏、小市民を描いた「ネフスキー通り」「検察官」「狂人日記」「外套」などを著してロシア・リアリズム文学の父となった。「われわれはみな、ゴーゴリの『外套』から出た」とは、ドストエフスキーの有名な言葉として知られている。最後の代表作「死せる魂」と格闘し、1852年、印刷するばかりになっていた第二部の原稿を暖炉に投じてこの世を去った。

立ち読みフロア


「おい、ちょっとうしろを向いてみい! なんというおかしなかっこうをしているのだ! お前たちの着ている坊さんの袈裟《けさ》みたいなものはいったい何だ? お前たちの学校ではみんなそういう服装をしているのか?」
 こうした言葉をもって、老タラス・ブーリバは二人の息子を迎えた。息子たちはキエフの宗教学校に官費生として学んでいた。そしていま父のもとへ帰省したのである。
 彼らは馬からおりたばかりだった。二人ともがっしりとした体格の若者で、学校を卒業したばかりの神学生よろしく、まだ上目使いに相手を見る癖から脱けきっていない。頑丈な健康そうな顔は、一度も剃刀《かみそり》のあてられない、生まれ落ちた時のままの、柔らかな綿毛におおわれていた。彼らは父のこうした応対ぶりにひどく面くらって、じっと目を地に落として立ち止まった。
「待て、待て! わしに、ようくおまえたちのみなりを見さしてくれい」と、二人の息子をあっちへ向けたりこっちへ向けたりしながら、父はつづけた。「まあ何て長たらしい外套を着ているのだろう! おかしな外套もあればあるものじゃのう! そんな外套にはまだこの世でおめにかかった事がないぞ。まあ二人のどっちでもいいから、一番ここで走ってみな! 裾《すそ》につまずいてどたんと転ぶような事がないかどうか、ここで見物してやろう」
「笑っちゃいけない、お父さん、笑っちゃいけませんよ!」と、たまらなくなって、兄の方がこう言った。
「まあ見てみろ、このけばけばしさはどうだ! いったいなぜ笑っちゃいけないんだ」
「きまってるじゃありませんか。いくらお父さんでも、笑ったりすると、何をするかわかりませんよ、ほんとに」
「ほう、豪儀なせがれだ! いやおどろいた! このおやじをやっつけるんだって?」と、びっくりして、二、三歩後へ飛びすさり、タラス・ブーリバは言った。
「たとえ、お父さんでもやむをえません。恥辱をあたえる者に対しては、誰彼の別なく、断じて容赦しませんからねえ」
「それならいったいこのわしと、何で勝負をするつもりじゃ? まさか拳固《げんこ》でぽかぽかやるわけにもゆかんじゃろう?」
「なあに、もう何だってかまやしない」
「そうか、なら拳固でやらかそう!」と、上着の袖をまくり上げて、ブーリバは言った。「一番この拳固にかけて、お前の土性っ骨を見てやろう!」
 かくて父と息子は、長く別れていた後の抱擁のかわりに、さっと飛びすさって互いに相手の隙をうかがったり、ふたたびじりじりと進みよったりしながら、ぽかぽかと所きらわず、横っ腹へも、腰へも、胸の辺りへも、拳固の浴びせ合いをやり始めた。
「あれごらんよ、お前たち。お爺さんは、どうかしてしまったよ! すっかり気が変になってしまったよ! すっかり気が変になってしまったよ!」と、しきいぎわに突っ立ったまま、かわいい二人の息子を、まだ抱きしめることもできずにいる、蒼ざめた、やせぎすの、そして気のよい母親が言った。「久しぶりで家へ帰って来たのじゃないか。一年以上も会わなかったのに、あの人は途方もない、何ということを思い立ったのだろう、拳固で殴り合いをするなんて!」
「なるほど、なかなか巧くやりおるわい!」と、拳闘の手を休めて、ブーリバは言った。「いやまったく、上できじゃ!」と、軽く衣服を直しながら、彼はつづけた。「これなら別に、試してみなくてもよかったぐらいじゃ。立派なコサックができあがるぞ! いや、せがれ、よう帰って来てくれた! さあ、あらためて挨拶《あいさつ》をしようかい!」ようやく父と息子は接吻をかわし始めた。「でかしたぞ、せがれ! 今このわしをきめつけたように、どやつでもこやつでも叩きのめしてやれ。誰も容赦するにはおよばないぞ! それはそうと、どうもやっぱり、お前はおかしななりをしてるのう。そのぶらぶらしている縄は何じゃい? お前はまた、アンドリイ、何で両手をぶらりとさせて、ぼんやり突っ立っているんだい?」こう彼は、次男の方へ向きながら言った。「やくざ者、何でこのわしを叩き伏せないのだ?」
「またあんな事を!」と、その間に次男の方を抱きしめていた母は言った。「血を分けた実の子供に父親を打たせるなんて、よくまあそんな考えが出たもんだ! それも、今すぐでなけりゃならないもののように。あの子はまだ年がゆかないのに、長道中をしたので、へとへとに疲れているんだもの……(という子供はもう二十歳を越していて、身の丈は二メートル余もあった)ひとまず休息して、何か食べなくちゃならないところだのに、あの人は拳闘なんぞさせなさる!」
「やれやれ、わしが見るところじゃ、お前はどうも意気地なしのようだな!」と、ブーリバは次男に向かって言った。「これせがれ、お母さんの言うことなんぞ聞くんじゃないぞ。あれはおなごじゃ、何にもわかりゃせん。お前たちにとって何が心の宝なんだ? お前たちの心の宝は、目をさえぎる何物もないからっとした野原と良い馬だ。――それがお前たちの心の宝じゃ! ほら、このサーベルが目にはいるだろう? これがお前たちのお袋だぞ! お前たちの頭の中へつめこまれているものは、何から何までくだらないものばかりだ。お前たちの今まで通っていた学校も、書物も、字引も、哲学とかいう代物も、そんな物はみんなカ《ヽ》 ズナ《ヽヽ》 シチョ《ヽヽヽ》だ、おまじないじゃ。――ぺっ、わしはそんな物にはつばをひっかけてやる!」と言ったその次へ、ブーリバは、とうてい活字にして公表しがたい言葉をひとつ挿入して、さらにつづけた。「おお、そうだ、いっその事、わしは来週お前たちを、ザパロジエ〔ザパロジエはドニエプル川の島、コサックの根拠地、ザパロジエ人はコサックを指す〕へやろうと思う。あちらになら真の学問がある、真実の生きた学問があるぞ! あちらにはお前たちのための真実の学校がある。あちらに行ってこそ、はじめて活《い》きた知識が得られるのじゃ」
「そんならたった一週間しか、この二人は家にいられないんですか?」と、やせ衰えた老いた母は、涙を浮かべ、哀れっぽい声で言った。「それじゃこの二人は、かわいそうに、ちょいと散歩に出る事もできないでしょう。自分の生まれた家をちゃんと見分ける事さえできないでしょう。それにこの私だって、はるばる帰った子供の顔を、しみじみ見る事さえできやしない!」
「もういい、もういい、婆さん、もう吠えるのはたくさんじゃ! おなごとじゃら《ヽヽヽ》ついているのがコサックの本分じゃない。お前はこの二人をスカートの下へ隠して、牝鶏が雛《ひな》をかえすように、二人の上へ坐っていたいのじゃろうが、まああちらへ行きなさい、行きなさい。そして早くわれわれのために、ありったけの御馳走を、食卓に並べなさい。パンブシキ〔油揚餅〕だとか、メドイケ〔蜜餅〕だとか、マコウニック〔罌粟餅〕だとかいったような代物《しろもの》はいらない。羊をありったけ出すがよい。山羊《やぎ》もだ。四十年もたつ例の蜜もな! 酒はうんとある方がいい。それも、乾葡萄《ほしぶどう》やその他いろんな薬味のはいったやつでなく、暴れ出すように沸騰《ふっとう》して、しゅうしゅう泡立つような純粋のウオッカがいいぞ」

……巻頭より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***