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「人間の絆(上・下)」 モーム/北川悌二訳 各630円 |
| モームの精神的自伝であり、今世紀英文学の最高傑作のひとつ。「えび足」という宿命の劣等感にさいなまれながら真摯に生き抜くフィリップの姿を、みじめな少年時代から、パリでの画家志望の暮らし、悪女ミルドレッドとの果てしない葛藤、医学への転身、サリーとの邂逅と愛の希望まで、徹底的にほりさげ描ききった大河青春文学。
サマセット・モーム(1874〜1965) 二十世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。代表作 「人間の絆」「お菓子とビール」「剃刀の刃」のほか、数多くの多彩な短編の書き手としても有名。 |
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| 立ち読みフロア | |
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翌朝、フィリップは早く目をさました。よく眠れない一夜だったが、脚をのばし、板すだれ越しに陽の光がさしこみ、それが床に模様を描きだしているのをながめると、満足感のため息がこみあげてきた。わが身がうれしく、ついで、ミス・ウィルキンソンのことを思い浮べた。彼女は、自分をエミリーと呼んでくれ、といっていたが、どうしたわけか、それを口にはできなかった。彼女のことを、いつも、ミス・ウィルキンソンとしてしか考えていなかったからだった。そう呼ぶと文句をいわれたので、彼女の名前を一切使わないことにした。子供時代、海軍将校の未亡人となっていたルイーザ伯母さんの姉妹がエミリー伯母さんと呼ばれているのを、彼はよく耳にしていた。このために、ミス・ウィルキンソンをその名で呼ぶのはなにか不愉快、さりとて、もっといい名を考えることもできなかった。ミス・ウィルキンソンで彼女ははじまり、それは彼女の印象と不可分のものになっていた。彼はちょっと渋面をつくった。とにかく、いま、彼女の最悪の姿を思い浮べたからである。 彼女が向きなおり、化粧着と短い下スカートをつけた姿をながめたときのとまどいは、どうしても頭からぬけようとせず、彼女のちょっと荒れた肌、首すじにくっきり彫りこまれたながいしわの線が思い出されてならなかった。勝ちほこった気分は、ながつづきしなかった。また彼女の齢を勘定してみたが、四十以下とはどうしても思えなかった。それだけでも、この情事は滑稽なものになった。彼女は醜女《しこめ》、いい齢の女なのだ。彼はサッと空想をめぐらし、しわだらけで、やつれ、化粧をベタベタぬり立て、家庭教師には不向きなくらいはで、齢に似合わぬ若づくりにすぎるあのドレス姿の彼女を思い浮べると、ブルッとした。もう二度と彼女には会いたくない、といきなり思った。あんな女とキスするなんて、もうたまらないことだった。われとわが身が空おそろしくなってきた。あれは恋愛だったのだろうか? 朝の服の着つけをできるだけながくのばしていたが、これは、彼女と会う時間を先にのばすためで、ひどく沈んだ気分になって、とうとう食堂にはいっていった。お祈りはもうすみ、朝食がはじまっていた。 「寝坊助《ねぼすけ》だこと」ミス・ウィルキンソンは陽気に叫んだ。 彼は、彼女をながめて、ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらした。彼女は、窓に背を向けて坐っていたが、とてもきれいだった。この彼女のことをどうしてあんなふうに考えてたのだろう? とふしぎでならなかった。自己満足がまたもどってきた。 彼女の変貌ぶりは、ハッと息をのむほどだった。朝食が終るとすぐ、たかぶった声で、彼女はあなたを愛している、といった。そして、その後間もなく、歌のレッスンでふたりが応接間にゆき、彼女がピアノ用の椅子に腰をおろすと、音階の練習の途中で彼女は顔をあげていった、 「わたしにキスして」 彼がかがみこむと、彼女は首に両腕をまきつけたが、これは、ちょっと不愉快なことだった。彼女におさえつけられて、息がだいぶ苦しくなったからである。 「ああ、大好き、大好き、大好きよ」ひどく強いフランス語調で、彼女は叫んだ。 フィリップは、彼女に英語で話してもらいたかった。 「ねえ、植木屋がいつ窓のとこをとおるかわからないのを、ひとつ忘れずにいてもらいたいもんですな」 「ああ、植木屋なんて構わないことよ、構いはしないわ、ぜんぜん構わないことよ」 これはいかにもフランスの小説ふう、とフィリップは考え、どうしてそれでちょっとイライラしてくるのか、見当がつかなかった。 とうとう、彼はいった、 「うん、海岸にいって、ひと浴びしようかと思ってるんです」 「まあ、今朝――とりわけ今朝、わたしを放りだしになんぞしないんでしょうね」 どうして放りだしにしていけないのか、フィリップにはよくわからなかったが、そんなことは問題じゃなかった。 「ぼくがそこにいたほうが、いいんですか?」彼はニヤリとした。 「ああ、かわいい人! でも、いいわ、いってらっしゃい。からだをすっぽり大海にひたして、塩の波をものともしないでいる姿を、わたし、想像してみたいの」 帽子を手にして、彼はブラブラと出かけていった。 「女って、なんてつまらんことをいうもんだろう?」彼は考えていた。 だが、彼はうれしく、幸福、いい気分になっていた。自分にぞっこんなのは、たしかなことだった。ブラックステイブルの大通りをびっこをひきながら歩いていったとき、とおりすがりの人たちを、彼はちょっと横柄な気分になってながめた。うなずきの挨拶をしなければならないたくさんの人がいたが、こうして挨拶がわりにニッコリと微笑を投げたとき、もし彼らがあのことを知ってたら! という考えが頭を走った。とにかく、だれかにとっても知ってもらいたかった。ヘイウォードに手紙を出そうと考え、心の中でその手紙を書いてみた。庭と薔薇、その中に香ばしく咲きでた異国ふうの片意地な花にも似た小柄なフランス人の女家庭教師のことを語ることにしよう。彼女をフランス人に仕立ててしまおう。というのも――そう、フランス滞在はながく、フランス人といってもいいくらいなんだ。 ……「三十五章」より |
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