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「牛肉と馬鈴薯」
国木田独歩著 315円 |
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牛肉(現実)か馬鈴薯(理想)か、どちらを食うのがいいのか、という問題を提出する「牛肉と馬鈴薯」、人間の孤独を探求した「酒中日記」ほか、独歩中期の以下の代表作11編を収める。
牛肉と馬鈴薯 国木田独歩(1871〜1908)千葉県銚子生まれ、広島市、山口県で育つ。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの抒情的・浪漫的な作品の後は、「運命論者」「竹の木戸」などで自然主義の先駆者となった。現在も続いている雑誌「婦人画報」は彼の創刊であり、ジャーナリスト、編集者としての手腕も評価されている。 |
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牛肉と馬鈴薯 明治倶楽部(クラブ)とて芝区桜田本郷町のお堀辺(ほりばた)に西洋作(づくり)の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了(しま)った。 この倶楽部が未(ま)だ繁盛していた頃のことである、或(ある)年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火(あかり)が点(つ)いていて、時々(おりおり)高く笑う声が外面(そと)に漏れていた。元来(いったい)この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常(いつ)も昼間ばかり立ちのぼっているのである。 然(しか)るに八時は先刻(さっき)打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車(くるま)が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。 すると一人の男、外套(がいとう)の襟(えり)を立てて中折帽(なかおれぼう)を面深(まぶか)に被(かぶ)ったのが、真暗(まっくら)な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴(よびりん)を押した。 内から戸が開(あ)くと、 「竹内君は来てお出(いで)ですかね」と低い声の沈重(おちつ)いた調子で訊(たず)ねた。 「ハア、お出で御座います、貴様(あなた)は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。 「これを」と出(いだ)した名刺には五号活字で岡本誠夫(せいふ)としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上って去(い)ったが間もなく降りて来て 「どうぞ此方(こちら)へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉(ストーブ)を熾(さかん)に燃(た)いていたので、ムッとする程温(あった)かい。煖炉(ストーブ)の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。傍(かたわら)の卓子(テーブル)にウイスキーの壜(びん)が上(のっ)ていてこっぷの飲み干したるもあり、注(つ)いだままのもあり、人々は可(い)い加減に酒が廻(ま)わっていたのである。 岡本の姿を見るや竹内は起(た)って、元気よく 「まアこれへ掛け給え」と一(ひとつ)の椅子をすすめた。 岡本は容易に坐に就(つ)かない。見廻すとその中(うち)の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可(よ)い紳士は未だ見識(みし)らぬ人である。竹内はそれと気がつき、 「ウン貴様(あなた)は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君(かみむらさん)と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧(ふる)い朋友(ともだち)で岡本君……」 と未だ言い了(おわ)らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で 「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」 岡本は唯(た)だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。そして椅子に倚(よ)った。 「サアその先を……」と綿貫(わたぬき)という背の低い、真黒の頬髭(ほおひげ)を生(はや)している紳士が言った。 「そうだ! 上村君、それから?」と井山(いやま)という眼のしょぼしょぼした頭髪(あたまのけ)の薄い、痩方(やせがた)の紳士が促した。 「イヤ岡本君が見えたから急に行(や)りにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞(は)にかんだような笑方をした。 「何ですか?」 岡本は竹内に問うた。 「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴(き)いて居給え名論卓説、滾々(こんこん)として尽きずだから」 「ナニ最早(もう)大概吐き尽したんですよ、貴様(あなた)は我々俗物党と違がって真物(ほんもの)なんだから、幸(さいわい)貴様(あなた)のを聞きましょう、ね諸君!」 と上村は逃げかけた。 「いけないいけない、先(ま)ず君の説を終(お)え給え!」 「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。 「僕のは岡本君(さん)の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之(つまり)、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」 「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。 「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」 「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸(うな)るように言った。 「だってねエ、理想は喰(た)べられませんものを!」と言った上村の顔は兎(うさぎ)のようであった。 「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。 「否(いや)ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」 「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅(まっか)な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目(まじめ)で言った。 「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯(ふき)だした。 「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起(やっき)になって、 「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋(いも)ばかし喰(く)っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯(いも)も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯(いも)とどっちが可(い)い?」 「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。 「然しビフテキに馬鈴薯(いも)は附属物(つきもの)だよ」と頬髭(ほおひげ)の紳士が得意らしく言った。 「そうですとも! 理想は則(すなわ)ち実際の附属物(つきもの)なんだ! 馬鈴薯(いも)も全(まる)きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」 と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。 ……冒頭より |
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