「若き日の芸術家の肖像」

ジェームズ・ジョイス/飯島淳秀訳

ドットブック版 255KB/テキストファイル 255KB

735円

ジョイスの若き日を描いたとみられる自伝的要素の強い作品。主人公スティーヴン・ディーダラスが自分の周囲、肉親、恋人、友人、先生とたもとを分かち、アイルランドの郷土、民族、宗教、政治から決定的に訣別して、芸術に奉仕するコスモポリタンな人間として生きることを選び取るまでの息苦しい苦闘を描く青春文学の力作。この作品の中の多くの要素はすぐあとに続く「ユリシーズ」へと引き継がれた。

ジェームズ・ジョイス(1882〜1941)蒸留所経営に失敗してさまざまな職業を次々と手がけた父と、熱烈なカトリック信者の母とのあいだにダブリン(アイルランド)で生まれる。同地のユニヴァーシティ・カレッジを卒業後、パリへ。貧しい暮らしを1年送ったあと母危篤の知らせを受けて戻るが、母の死後の04年、再び故郷を離れ、二度と戻ることなくイタリア、フランス、スイスなどで生涯を送った。学生時代から抒情詩を書き作家をめざしたが、最初の小説「ダブリン人」がでたのは14年、ついで16年「若き日の芸術家の肖像」を発表した。22年には「ユリシーズ」が完成、だが検閲にかかってフランスでしか出版できなかった。23年に書き始めた最後の大作「フィネンガンズ・ウェイク」が完成したのは39年であった。

立ち読みフロア

 むかしむかし、とてもたのしかったころのことでした。一ぴきの牛モウモウがみちをやってきました。みちをやってくるこの牛モウモウは、タックー坊やというかわいらしい男の子にあいました……
 彼の父が彼にそのお話をきかせてくれた。父は片めがね越しに彼を見た。父は髯むじゃらの顔をしていた。
 彼はタックー坊やだった。牛モウモウはベティ・バーンが暮らしている道のほうからやってきた。彼女はレモンせんべいを売っていた。

 おお、野ばらの花が咲いてます
 小さな青い原っぱに

 彼はその歌をうたった。それは彼の歌だった。

 おお、青いばやの花がちゃいてます

 おねしょをすると、初めはあったかく、やがて冷たくなってくる。彼の母は油紙をしいた。それは妙な臭いがした。
 母は父よりもいい匂いがした。彼女は踊る父のためにピアノで船乗りのホーンパイプ節〔木笛を伴奏にする舞曲〕をひいた。彼は踊った。

 トラララ ララ
 トラララ トラララディ
 トラララ ララ

 チャールズ伯父とダンティとが手をたたいた。彼らは彼の父や母より年長だったが、チャールズ伯父はダンティよりも上だった。
 ダンティは彼女の洋服だんすにブラシを二本しまっていた。えび茶色のビロードの背のブラシはマイクル・ダヴィット〔アイルランドの急進的な政治家〕のためのであり、緑色のビロードの背のブラシはパーネル〔アイルランド独立運動の志士〕のためのであった。彼が薄葉紙《うすようし》を一枚持っていってやるたびに、彼女は香錠《カシュー》を一つくれた。
 ヴァンス一家は七番地に住んでいた。そこにはまた違うお父さんとお母さんがいた。アイリーンのお父さんとお母さんだった。二人が大きくなったら、彼はアイリーンと結婚するつもりだった。彼はテーブルの下にかくれた。彼の母が言った。
 ――まあ、スティーヴン、お詫びしなさい。
 ダンティが言った。
 ――ほら、お詫びしないと、鷲がやってきて、おめめをくり抜きますよ。

 おめめをくりぬけ
 おわびしなさい
 おわびしなさい
 おめめをくりぬけ

 おわびしなさい
 おめめをくりぬけ
 おめめをくりぬけ
 おわびしなさい

 *

 広い運動場は少年たちであふれ返っていた。みんな、わめいていた。生徒監たちが力強い叫び声で彼らをしきりに励ましていた。夕暮れの空気は蒼ざめ、ひえびえとしていた。蹴球をしているものたちが突進し、ずしんとぶつかるたびに、べとべとした革の球が鈍重な鳥のように薄明の中を飛んでいった。彼は自分の級の者の端、生徒監の見えないところ、乱暴な足のとどかぬ場所に絶えずいて、ときおり走り廻る振りをしていた。競技をしている生徒たちの群の中にいると、自分の体がいかにも小さく弱々しく感じられた。それに眼も弱くて、うるんでいた。ロディ・キッカムは違う。彼は第三級〔上級、中級につぐ最下級の組〕のキャプテンになるだろうと皆が言っていたくらいだ。
 ロディ・キッカムは上品な生徒だったが、厭《ナスティ》なロウチは鼻もちならぬ奴だった。ロディ・キッカムは自分の番号の戸棚に脛《すね》当てを、また、学校の食堂には詰め籠〔寮にいる生徒に家庭から食糧をつめて送る籠〕を持っていた。ナスティ・ロウチは大きな手していた。彼は金曜日のプディングを「毛布にくるまった犬《ドッグ・イン・ザ・ブランケット》」〔乾ぶどう入りパンやジャム入りプディングのこと〕と言っていた。ある日、彼がきいた。
 ――君の名はなんていうんだい?
 スティーヴンは答えた。
 ――スティーヴン・ディーダラス。
 するとナスティ・ロウチが言った。
 ――そりゃどういう名前なんだい?
 スティーヴンが答えられないでいると、ナスティ・ロウチはきいた。
 ――君のお父さんはなんだい?
 スティーヴンは答えた。
 ――紳士《ジェントルマン》だよ。
 するとナスティ・ロウチがきいた。
 ――お役人かい?
 彼は自分の級の者たちの端をあちらこちら、こそこそと動き廻り、時にはちょっと駈けだしてみたりした。けれど、両手は寒さで青白くなっていた。両手を絶えず、革帯《ベルト》でしめたねずみ色の上衣の脇ポケットに突っこんでいた。それはポケットの上をぐるりと巻いたベルトだった。ベルトといえば人をひっぱたくのにも使う。いつだったか、誰かがキャントウェルに言ったっけ。
 ――ぐずぐずいうと、思いきりベルトをくれてやるぞ。
 キャントウェルは答えた。
 ――喧嘩ならお前の相棒とやってこいよ。セシル・サンダーをひっぱたいてみろ。そいつが見てえや。あべこべにおけつを蹴っとばされるだろうさ。
 あれは上品な言葉づかいじゃない。学校の乱暴な子たちと口をきいてはいけませんとお母さんが言ったっけ。上品なお母さん! 最初の日、お城〔クロンゴウズ・ウッド・カレッジは中世の城の中にある〕の玄関《ホール》でお母さんがさよならを言ったとき、ヴェイルを鼻のところまでまくり上げて、ぼくにキスをした。そのとき、お母さんの鼻も眼も赤くなっていた。だけど、ぼくはお母さんが今にも泣きだしそうなのを見ないふりをしていた。上品なお母さんだけど、泣くとそう上品じゃない。それからお父さんはお小遣いに五シリング銀貨を二つくれたっけ。それから、何かほしいものがあったら手紙でわたしに言ってよこしなさい、また、どんなことをやっても、決して友達の告げ口だけはしてはいけないとお父さんは言ったっけ。それからお城の扉口で校長先生は、法衣を微風にひらひらさせながらお父さんとお母さんに握手をした。そして馬車は、お父さんとお母さんを乗せて駈けだしていった。二人は馬車から手をふりながら叫んだ。
 ――さよなら、スティーヴン、さよなら!
 ――さよなら、スティーヴン、さよなら!

……冒頭より


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