「赤い花」

ガルシン/小沼文彦訳

ドットブック版 207KB/テキストファイル 153KB

500円

新たに精神病院に連れてこられたその患者は、病院の花壇に異様な赤い花を見つける。彼には、その花はあらゆる悪のシンボルと感じられ、それを摘み取ることが自分に課せられた仕事なのだと思い込む。…この代表作「赤い花」のほか、「四日間」「アッターレア・プリンケプス」「めぐりあい」「信号」など、ガルシンの代表作6編を収録。

ガルシン(1855〜88)ウクライナ生まれ。ペテルブルク鉱業専門学校に学ぶ。露土戦争に志願し、負傷して退役。処女作「四日間」はこのときの体験を描いて評判となった。以後創作に励み、悪と不正に対する潔癖な作風を特徴とする短編を多く書いたが、生涯を通じて遺伝的な精神病に悩まされ、発作的な自殺に追い込まれた。

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「かしこくも皇帝、ピョートル一世陛下のご名代として、本精神病院の査閲《さえつ》を宣《せん》す!」
 こんな言葉が、大きなかん高い、耳に響きわたるような声でのべられた。インクのしみだらけの机の上のぼろぼろの大きな帳簿に患者の名まえを書き込んでいた病院の書記は思わずにっこりとしてしまった。けれども患者についてきた二人の若者は、にこりともしなかった。二昼夜というものまんじりもせずに、この狂人とつらつき合わせて、たったいま汽車でここまで連れてきたところだったので、立っているのもやっとのことであった。ひとつ手前の駅で狂気の発作がこうじてきたので、どこからか緊衣《きんい》〔凶暴性の患者の自由を束縛するために着せるズックの上衣〕をさがし出し、車掌と憲兵を呼んできて、患者に着せた。そのままこの町に連れてきて、病院にもそのかっこうで送りとどけたのであった。
 見るからに恐ろしい姿だった! 発作の起こったときにずたずたに引き裂《さ》いてしまったねずみ色の服の上から、くりこみの大きいごわごわしたジャケットが、しっかりと彼の胴体《どうたい》をしめつけていた。長い袖《そで》は、両手を胸の上にぎゅっと十文字に押えつけ、背中《せなか》で結び上げられていた。まっかに血走った、大きく見開かれた両眼は(十昼夜ものあいだ彼は一睡《いっすい》もしなかったのだ)きっとすわって、炎《ほのお》のように輝いて燃えていた。神経性の痙攣《けいれん》が下唇《したくちびる》の片端をぴくぴくと引きつらせ、もじゃもじゃになったちぢれ髪はまるでたてがみのように額《ひたい》に落ちかかっていた。彼は足ばやにずしずしと事務室の隅から隅へと歩きまわって、探るような目つきで書類のつまっている古戸棚やレザー張りの椅子《いす》やらをじろじろとながめまわしたり、ときたまその道連れのほうをちらりと見やったりした。
「病棟《びょうとう》のほうへ連れていって。右のほうだよ」
「ぼくはわかってるよ、わかってるよ。去年君たちといっしょにきたことがあるからね。ぼくらはこの病院を検閲《けんえつ》したのさ。ぼくにはもうすっかりわかっているんだから、だますのはなかなか骨だぜ」患者はこういった。
 彼は戸口のほうへ向き直った。看視人《かんしにん》がその前の戸をあけてやった。すると相変わらずのずしずしとした足ばやの、しかも決然とした足どりで、狂った頭を高らかにあげて事務室を出ていった。そしてまるで駆《か》けるように右へ折れて精神病患者の病棟へといってしまった。護送人たちはやっとのことで追いついいけたほどであった。
「ベルを押してくれ。ぼくは押せないんだ。きみたちが手をしばりあげてしまったんだからな」
 門番が戸をあけた。そして一行は病室に足をふみ入れた。
 それは古めかしい役所ふうの建て方をした、大きな石づくりの建物であった。大広間が二つ、一つは――食堂で、もう一つは――暴《あば》れない患者の雑居坊になっている、花壇のある庭に通じたガラス張りのドアのついているひろびろとした廊下《ろうか》、それから患者たちの住んでいる独房が二十ばかり――これだけが一階を占めていた。ここには暗い部屋が二つつくられていて、一つは――敷物が張りめぐらされ、もう一つは板張りだったが、ここには凶暴性の患者を入れておくのだった。それに円天井《まるてんじょう》の大きな陰気な部屋――これは浴室であった。二階は女の患者が占めていた。そこから、うなり声や、慟哭《どうこく》の声にさえぎられながら、調子はずれのはしゃぎ声が聞えてきた。この病院はもともと定員八十名としてしつらえてあったのだけれども、なにぶんにもこの病院一つが近隣の数県を受け持っていたので、三百人もの患者が入れられていた。たいして大きくない小部屋には四つから五つぐらいずつ寝台が入れてある。冬になって、患者を庭に出さず、鉄格子《ごうし》のかげの窓という窓をみんなぴったりとしめ切ってしまうと、病院の中はたまらないほど息苦しくなるのであった。
 新入りの患者は浴槽《よくそう》のある部屋へ連れていかれた。正気な人間にさえ、この部屋は重苦しい印象を与えぬでもないものを、ましてや狂った、気のたかぶっている、とりとめのないことを考えがちな心にはなおさら重苦しく作用したのである。それは円天井の大きな部屋で、石づくりの床はべとべとし、片隅にあるたった一つの窓からしか明かりはさしこまず、壁と円天井とは赤黒いペンキで塗りあげられ、よごれて黒ずんでいる床には、床の面とすれすれに、まるで水を張った二つの卵形の穴のように、二つの石の浴槽がはめこまれていた。湯沸かし用の円筒形のかまや、あかがね製の管だのカランだのの一式ついたとてつもなく大きな銅製の炉《ろ》が、窓に向かいあった部屋の一隅を占めていた。そうしたものはみんな、狂った頭にとってはなみなみならず陰鬱《いんうつ》で怪奇な性質をおびたものばかりだった。しかも風呂《ふろ》番のふとっちょでついぞ口をきいたことのないだんまりやのウクライナっぽう《ハホール》が、その陰鬱な顔つきでいやが上にもその印象を強めていた。

……『赤い花』冒頭

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