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「メグレと若い女の死」 シムノン/長島良三訳 525円 |
| 午前3時すぎのヴァンティミル広場は静かな小島のようだった。車が1台とまり、4、5人の男が地面に横たわる明るい色の物体を囲んで立っていた。メグレが到着すると、無愛想な刑事ロニョンのやせた影がそこにあった。死体は湿った歩道に頬をつけて横たわっていた。片方の足には靴がなかった。身につけたイヴニング・ドレスは傷んでおり、肌寒い3月というのにコートは着ていなかった。メグレはなぜか、これが複雑な事件になるような気がした。シムノンの油の乗り切った時期の代表作のひとつ。
ジュルジュ・シムノン(1903〜89)ベルギーのリエージュ生まれ。16歳で新聞社の通信記者になり、17歳で処女小説を発表。20歳にはパリに出て、多くのペンネームを使って作品を書きまくる。そのなかで一番の当たりをとったのがジョルジュ・シムノン名義の「メグレ・シリーズ」だった。シリーズの処女作「怪盗レトン」は1930年に27歳のときに書かれて大評判となり、以後、メグレ物をほとんど毎月一冊のペースで発表、シリーズは長短78編に達する。1983年には「筆を断つ」を宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。 |
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| 立ち読みフロア | |
| 一 メグレはあくびをし、書類を事務机の端に押しやった。 「坊やたち、これに署名したらどうだね。そうすれば寝られるよ」 《坊やたち》というのは、ここ一年来司法警察が逮捕した者のなかでもとくに手に負えない、三人の屈強な男たちだった。彼らの一人、テデというのはゴリラのような男で、眼に黒あざのある、すらりとしたほうは、フリー・スタイルのレスラーとしても食っていけただろう。 ジャンヴィエが三人に書類とペンを渡した。彼らはすでに泥を吐いてしまったあとなので、文句もいわず、自分たちの訊問調書さえも読まずに、ものうげに署名した。 大理石の掛け時計は三時数分をしめしている。司法警察のオフィスは大部分、暗闇のなかに沈んでいた。だいぶ前から、遠いクラクションと、濡れた舗道でスリップしたタクシーの、キューというブレーキの音以外は何も聞えなかった。前日、この三人の男が連行されてきたときも、大部分のオフィスにはひとけがなかった。朝の九時だったので、職員がまだ出勤していなかったのである。 そのときすでに雨は降っていた。そして、いまも相変らず細かい憂欝な雨が降りつづいている。 三人の男は同じ部屋のなかに、あるときは一緒に、あるときは別々に三十時間以上も入れられ、メグレと彼の五人の部下たちから交互に質問の雨を浴びせられた。 「バカもの!」と、警視は彼らの前に現われるや、まずこう口を切った。「もういいかげんにしないか」 これら馬鹿ものどもは頑固なので、いつでも口を割るのにものすごく手間取るのである。彼らは取調べに対してぜんぜん答えないか、五分ごとに言うことが変るのもかまわずでたらめな返答をしていれば、そのうち虎口(ここう)を脱せられるものと思っている。彼らは自分を大悪人だと信じているので、最初はいつでも偉ぶってみせる。 「――おめえさんたちは、おれを捕まえたと思っていい気になっているだろうが!」 この三人の男は数か月前から、ラ・ファイエット街の周辺で悪事を働いていた。新聞は彼らを《壁抜け男たち》と呼んでいた。彼らを逮捕することができたのは、ある匿名の電話のおかげだったのである。 コーヒーの滓(かす)がたまった茶碗と、焜炉(こんろ)の上にはエナメル塗りの小さなコーヒー沸し器が、そのまま置きっぱなしにされていた。だれもが疲れた顔つきをし、顔色も灰色だった。メグレはタバコをすいすぎて、咽喉がやけるようだった。彼は、この三人を片づけたら、ジャンヴィエを誘って、どこかに玉ねぎのスープを食べに行こうかと考えていた。眠気はとっくの昔にすぎ去っていた。メグレが疲労のあまり、オフィスのなかでうとうとしたのは十一時頃であるが、いまではもう眠りたいとも思わなかった。 「やつらを連れていくようにヴァシェールにいいなさい」 三人が刑事部屋から出た瞬間、電話のベルが鳴り響いた。メグレが受話器をとると、声がきこえた。 「きみは、きみはだれだい?」 メグレは眉をしかめて、すぐには返事をしなかった。電話線の向こうで、たずねた。 「ジュシィー?」 ジュシィーというのは、当直のはずだが、メグレが十時に家に帰してやった刑事の名前である。 「いや、メグレだ」と、彼はつぶやいた。 「失礼しました、警視殿、こちらは中央のレイモンドです」 この電話は筋向いの建物――その大広間には、救護警察へかかるすべての電話が通じている――からきたものだ。パリじゅうに備えつけられた赤塗りの警報器の板ガラスを壊すと、壁一面にひろがっているパリの地図の上に豆ランプがともる。と、当直者が電話交換台の穴の一つにプラグをさし込む。《――こちら中央です――》 喧嘩の場合もあり、手に負えない酔っぱらいの場合もあり、パトロール隊が助けを求めてくる場合もある。 すると中央の当直者はプラグを別の穴に差し込む。 「グルネル街の派出所ですか? きみか、ジュスタン? 河岸に車をやってくれ、二百十番地だ……」 〈中央〉では、常に二、三人が夜勤をする。彼らのところもコーヒーの準備ができているにちがいない。重大事件の場合、彼らは司法警察に知らせるときもあるが、相棒に電話して連絡をとることもある。 「ジュシィーは出かけている。なにか特別に伝えることでも?」と、メグレはいった。 「ヴァンティミル広場で、若い娘の死体がいましがた発見されたということを」 「詳しいことはわからないのか?」 「第二地区の者が、いま現場にいるはずです。わたしは三分前に電話を受けたのです」 「ありがとう」 三人の兇漢どもはすでにオフィスから連れだされていた。ジャンヴィエがもどってきた。徹夜をするといつもそうなのであるが、赤みを帯びた眼をし、身体の工合でもわるそうな感じの、ぶしょうひげをはやしていた。 メグレは外套を着ると帽子をさがした。 「来るか?」 ……冒頭より |
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