「ナイン・ストーリーズ」

J・D・サリンジャー/鈴木武樹訳

ドットブック版 290KB/テキストファイル 159KB

525円

「ライ麦畑でつかまえて」で知られる現代アメリカの作家サリンジャーがみずから選んだ9編の物語。おもな登場人物たちは、日常生活の規格的な営みに虐げられた者、常軌をはずれた者、狂気の者、幼くして心を硬ばらせ消耗しつつある者、防備を知らない無邪気な者たちだ。しかし作者の目は、彼らを仮借なく、愛情をこめ、ユーモラスに分折してやまない。若者の内面を赤裸々に描いた珠玉の選集。

サリンジャー(1919〜)アメリカの戦後世代を代表する作家。「ライ麦畑でつかまえて(1951)」はマーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」の伝統を引き継ぐ作品と評されて、一躍新感覚の作家と認められた。その後の作品はほとんどが「ニューヨーカー」誌に発表された。代表作は「フラニーとズーイ」に始まるグラス家の物語のほか、短編集「ナイン・ストーリーズ」がある。

立ち読みフロア
 そのホテルにはニューヨークの広告業者が九十七人いて長距離電話を独占していたので、、五〇七号室の若い女は、相手を呼びだすのに正午から二時半ちかくまで待たされた。それでも彼女はその時間をむだには使わなかった。ポケット版の婦人雑誌の、「性は喜び――か地獄だ」という題の記事を読んでいたのだ。それから、櫛(くし)とブラシを洗った。べージュのスーツのスカートから、しみを抜いた。《サックス》のブラウスの、ボタンの位置を変えた。新しく生えてきた毛を二本、毛抜きでほくろから抜きとった。ついに交換手が呼びだしのベルを鳴らしてきたときには、彼女は窓下腰掛に腰かけて、もうすこしで左手の爪にマニキュアを塗りおえるところだった。
 電話が鳴ってもべつにあわてるような娘ではなかった。まるで、年ごろになってからこのかた、彼女の電話はたえず鳴りつづけている、とでもいった様子だったのだ。
 電話が鳴っているというのに、彼女はマニキュアの小さな刷毛で小指の爪を、とくに月の線を強調しながら、なぞった。そしてそれから、マニキュアの瓶(びん)にキャップをすると、立ちあがって、左の――濡れたほうの――手を空中で前後に動かした。そのあと、乾いたほうの手で、窓下腰掛の上から、いっぱいに詰まった灰皿を取って、それをナイトテーブルのほうへ運んだ、電話はそのテーブルの上にあるのだ。彼女は、きれいに直してあるツィンのベッドの片方に腰をおろして――五回目か六回目かにベルが鳴ったとき――受話器を取りあげた。
「もしもし」と、彼女は、左手の指を前に伸ばして白い絹のドレッシング・ガウンから遠ざけながら言った。彼女がいま身につけているものといえば、スリッパのほかはこれだけで――指輪はバスルームに置いてきていた。
「ニューヨークがお出になりましたけど、グラスさん」と、交換手が言った。
「ありがと」若い女はそう言って、ナイトテーブルの上に、灰皿を載せる場所を作った。
 女の声が聞こえてきた。「ミュリエル? おまえかい?」
 若い女は受話器を耳からわずかに遠ざけた。「ええ、そうよ、お母さん。お元気?」
「わたしゃ、おまえのことで、死ぬほど心配してるんだよ。どうして電話をくれなかったの? だいじょうぶなのかね?」
「ゆうべ、かけようと思ったのよ、おとといの晩もね。ところが、ここの電話ったら――」
「だいじょうぶなのかい、ミュリエル?」
 若い女は受話器と耳とのあいだの角度を広げた。「元気よ。暑いのよ。きょうは最高の暑さですって、フロリダでここ――」
「どうして電話をくれなかったの? わたしゃ、心配してたんだよ、死――」
「お母さん、ねえ、そんな大きな声、出さないで。とってもよく聞こえてるんだから」と、若い女は言った。「ゆうべ、二回も電話したのよ。一度は、ちょうど――」
「お父さんに言ってあったんだよ、こんやあたりは電話をよこすだろうってね。ところが、よこさないじゃないの、お父さんたら――だいじょうぶなのかい、ミュリエル? ほんとのとこを言いなさいよ」
「元気だわよ。もう、そんなこと、聞くのはやめてよ、お願い」
「いつ、そっちへは着いたんだね?」
「よくはわからないけど。水曜日の午前よ、朝早くね」
「運転はだれがしたの?」
「あの人よ」と、若い女は言った。「でも、はらはらしないでよ。あの人、運転はとってもうまいんだから。あたし、びっくりしたわ」
「あの人が運転した? ミュリエル、おまえ、わたしに約束したでしょうが――」
「お母さん」と、娘は口を挿んだ。「いま言ったばかりじゃないの。あの人、運転はとってもうまいんだから。最初から最後まで、ずうっと八十以下よ、ほんと言って」
「途中で木に、ほら、例のおかしなこと、しなかったかい?」
「運転はとってもうまかったって、言ったじゃないの、お母さん。ねえ、もうよして。あの人には頼んでおいたのよ、白い線から離れちゃいけないって、そういったこと、みなね。そうしたら、あたしの言う意味、わかってね、そのとおりにしてくれたわ。木は見ないようにもしてくれていたわ――ほんとよ。それはそうと、お父さん、あの車、直してもらった?」
「まだだよ。四百ドルだって言うもんだからね、ただ――」
「お母さん、シーモアがお父さんに言ってたでしょうが、そのおカネは払うって。なにもお父さんが――」
「さあ、どうだかね。あの人の様子はどうだった――車の中やなにかで?」
「だいじょうぶよ」と、娘は言った。
「あいかわらず、おまえのこと、呼んでたかい、あのひどい――」
「ううん。いまでは、またべつの名、使ってるわ」
「どんなのを?」
「まあ、それがどうだっていうのよ、お母さん?」
「ミュリエル、わたしゃ、知りたいんだよ。おまえのお父さんが――」
「わかったわ、わかったわ。あの人はね、あたしのことを、『一九四一年のミス精神的売春婦』って、呼ぶのよ」娘はそう言って、クスクス笑った。

……「バナナフィッシュにはもってこいの日」冒頭

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